運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め 〜「おかきさげ」を読む〜

「おかきさげ」シリーズ第14段

おかきさげ本文

「又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。」

「おかきさげ」

今回はこの部分について、理解を深めたいと思います。
前回をお読みいただきますと、さらに理解が深まるかと思いますので参考にあげておきます。

人を救ける心は真の誠一つの理 ~おかきさげを読む~

2018年9月17日

何事も我が事と思う

おさづけを取り次ぐ場面で、先方が救かることだけを考えていては、大事なことを見落とすことになってしまいます。

その大事なこととは、自らのいんねんです。

おたすけの場面では相手をおたすけするだけでなく、
自らのいんねんを見せいただいているということを、忘れてはなりません

おさしづに

見るもいんねん、聞くもいんねん。添うもいんねん。
「おさしづ」「明治二十三年九月二十七日」

と教えられます。

おたすけは相手があって成立するものです。
相手をみつめ、相手の話を聞き、相手に寄り添うおたすけは、相手の悩み事は相手の問題で自分には関係ないと線引きせず、自らのいんねんを見せていただいていると理解することが大切です。

一言で言えば
おたすけは、我が家のこと、我が身のことをさせていただくという心が大事です。

これはおたすけに限ったことではなく、何をさせていただくのも、我がことをさせていただいているという心が大切です。

「おふでさき」に

たん/\とこのみちすじのよふたいハ
みなハが事とをもてしやんせ
おふでさき(10-104)

さらに「おさしづ」では、

「我が事と思たら、我が事になる。人の事と思たら人の事になって了う。」
「おさしづ」「明治三十一年九月三十日 午前二時」

「尋ねる人、又取り次ぐ人、めんめんも、事情他人の事と思わず、救けにゃならん救からにゃならん心以て、互い互い理を以て運ばにゃならん。」
「おさしづ」(明治三十三年十月十八日)

「さあ/\人の事と思うたら人の事、我が事と思うたら我が事。よう聞き分け。」
「おさしづ」(明治三十五年九月六日)

このように、原典では我がことと思うようにと諭されています。

 

お道は「させてもらう」精神

全ては我がことなのです。
そこで具体的に我がことと思うポイントを、先人は以下のように語られています。

教祖に直接導かれた宮森与三郎先生のお話から、

「天理教におきましては、「もらう」ということになってこなければ、教祖の足跡を踏ましてもらうことができない。「どうしてあげる」「こうしてあげる」というのは、世界並や。人が思い荷を持っておられるとか、重い荷を引いておらるるとか、仕事をしておらるうとかいうときに、どうか私に手伝わしてくだされ、手助けさしてくだされ、押してくだされというのは、これが天理教の心遣いや。これが教祖の「ひながた」や」
宮森与三郎「だめの教え」『本部員講話集上』36頁

「してあげる」のではなく「させてもらう」という精神になってこそ天理教の心遣いであり、それが教祖の歩まれた「ひながた」であると仰せられます。続けて、

「世界並にしましたら、押してあげる、たすけてあげる、手伝ってあげるというのでしょう。なるほど、その場はそれでよろしいが、何か、そこに事情が起って、その人と心が合わんようになったとか、自分が困難におちいったばあいには、やったものは取り返す精神がわいてくる。おれは、あのくらい世話をしておいてやったのに、その恩をわすれてくさる。また、おれが、これほど難儀しているのに、何とかしてくれという心がわくでしょう。ちょうど、子供がやったものを取り返すのと同じことや。やったものを取り返すような精神では「いんねん」は切れん。
宮森与三郎「だめの教え」『本部員講話集上』37頁

「してあげる」という一般的な考えかたでは、自らが尽くしたことを取り返そうという気持ちが湧いてくると仰せられます。
何をさせてもらうのも【我がこと】という精神でつとめるなかに、自らを困らせることになる「いんねん」を切り替えていただけると語られます。

 

例えば、自分のことをしているのに、お礼の言葉がなかったといって不足する人はいないと思います。
他人のことをしていると思うと、お礼の言葉がなかったときに不足の心が湧いてくるものです。
自分の部屋を掃除していても、隣近所からお礼を言われることはありません。
本人としても、そんなことは気にもならないはずです。
ですから、おたすけに際して、我がことと思うことが大切と指示されるのです。
「してやった」「たすけてやった」という心は厳禁ですね。

楽しく徳を積む

「させてもらう」という精神が大切であることは、ご理解いただけたでしょうか。
さらに、我がことについて触れられている「おさしづ」では、

「それは楽しんでせい/\。皆我が事になると言うたる。」

「おさしづ」(明治三十四年六月十四日)

他人のことをさせていただく上においても、楽しんでいそいそと勤めるよう諭されます。
稿本天理教教祖伝逸話篇の鴻田忠三郎先生の逸話を思い出しますね。

まとめ

今回は終始一貫して何事も見返りを考えないことが大切というお話でした。
目の前に起こることは、全て自らの心があらわれてきた世界であります。
つまり全てのことは我がことなのです。
すべての出来事を我がことと考えることができれば、見返りを考えない「させてもらう」という精神になるのです。

そしてその道こそ、先人先輩が辿ってこられた教祖の「ひながた」であり、陽気ぐらしへ続く一条の道と教えられるのです。

しかしながら、、、
全てを我がことと思うことは、なかなか容易なことではありません。
ですが、だからといってこの道を歩まなければ何も始まりません。

日々ぼちぼち一歩づつ、
神様に示された道に近づく努力を重ねてまいりましょう。
この歩みこそお道の信仰だと私は信じます。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。