「理の歌」とは、
教祖(おやさま)は、
「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」
(『稿本天理教教祖伝』95頁)
と仰せられます。
「理の歌」とは、教祖によってお教えいただいた「みかぐらうた」の地歌を意味し、
「踊る」とは、教祖自らによってお教えいただいた手ぶり、足の運びを意味しています。
「理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」と、仰せられるのは、歌に合わせて踊るということよりも、理に合わせて踊るということが強調されているように思います。
そして、
「つとめに、手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷(よろしく)ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」
(『稿本天理教教祖伝』95頁)
とも諭され、おつとめは命の切り替えをする大切なものであるから、手がぐにゃぐにゃすることや、間違うことのないようにと仰せられています。
特に「手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや」という部分は、心のあり様が踊る際に重要な位置をしめることをお教えくだされています。
おつとめを合わせると聞くと、歌の音程やリズム、手振りをイメージする人が多いかと思います。
しかし、教祖の仰せには、手振りは心を表わすものであり、さらには神様の思召である「理」に合わせるということが強調されているのです。
このように導かれたこともあってか、先人の人々はおつとめを大切にされていました。それは数々の逸話から読み取ることができます。いくつか挙げますと、
先人のつとめに対する態度
二月十八日(陰暦正月十五日)、心勇組(※現敷島大教会の前身)の講中(集団の構成員の意)が大勢、お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めさして下され。と頼んだけれども、目下、警察より厳しく取締りあるに付き、もし十二下りを勤めるならば、忽ち、教祖に御迷惑がかゝるから。と、断った。
上村吉三郎はじめ、一部の者は、勇み切った勢の赴くまゝに、信徒の宿泊所になって居た、門前のとうふやこと村田長平方の二階で、てをどりを始めた。(『稿本天理教教祖伝』282頁)
後に、「最後の御苦労」へとつながる一連の出来事ですが、このてをどりを耳にされた教祖は「心勇講は一の筆やなあ」と、ご満足そうに仰せになられたと語られています。
また、大阪の真明組(現在の芦津大教会)は、とてもてをどりを熱心に勤めていたと言われています。
「本田の寄所には、毎夜三十人、五十人と信者が参拝し、太鼓をたたいておつとめを行い、十二下りを踊ったが、その太鼓が破れるほど熱心であった。随分賑かで、寄所の畳が三カ月ですっかりすりへった位であった。」「余り賑かに熱心にするので、近所の人からやかましいと文句をいわれたり、町内から安眠を妨害すると苦情を申し込まれるようになった。そこで適当な空地で稽古を行ったり、夜は近くの国津橋の上まで出かけて稽古をはげみ、夜の更けるのも知らず、ようやく東の空が白みかける頃、「あっ、もう夜明けだ。」と、白みかけた東方の空に合掌をしては解散することがしばしばであった。」
(『真明芦津の道 巻一』参照)
これらの逸話によって、先人の方たちのおつとめに対する取り組みがとても熱心であったことが伺えます。
まとめ
『おふでさき』に
つとめさいちがハんよふになあたなら
天のあたゑもちがう事なし『おふでさき』10号34
と、おつとめを神様の思召どおりにつとめることで、天からのお与えが変わると『おふでさき』においてお教えいただきます。
先人の人々はこのお言葉にしたがって、神様の思いを求め、そして自分のものにしようと真剣におつとめの稽古に励んだのではないでしょうか。
「理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」
このお言葉は、
祭儀としてのおつとめの役割だけでなく、お教えいただいた教理(歌)に、自らの態度(手ぶり、足運び)を合わせるということを象徴的にお教えいただいているのではないでしょうか。
おつとめがつとめられるようになることはもちろん大切なことですが、
「みかぐらうた」に込められた理を理解すること、そしてその理に合わせて踊るということ、この二つの点を忘れることなくおつとめに取り組むことができれば、なお一層、教祖の思いに近づくことができるのではないでしょうか。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか~☆