原典について ~『おふでさき』の回収、ふたたび公刊へ~

昭和3年『おふでさき』公刊後

昭和3年『おふでさき』が公刊されてのち、教祖(おやさま)五十年祭(昭和11年)、立教百年祭(昭和12年)という両年祭記念として、教祖直筆のお筆による、変体がなの『おふでさき』が教会に下付されます。

昭和13年のふし、そして革新の時代へ

しかし、『おふでさき』、そして時を同じくして公刊されていた『おさしづ』は、すべて教会本部へ回収、破棄されることになります。
昭和13年、折からの社会情勢によって、「泥海古記に関連ある一切の教説は之を行はず」という本部からの通達によって、すべての教義は「天理教教典」(明治36年編纂)に依拠し、教団運営の改善をするようという指示が文部省宗教局を発せられます。
つまり、明治時代の天理教教典に載っていることで信仰しなさいという命令ですね。
この取り組みを【革新】と呼び、おつとめの様式も変更し、上段でまなびの座りづとめという形になります。
※この【革新】という時代は昭和13年から終戦の昭和20年8月まで続きます。

復元の時代

戦後、二代真柱様は復元を提唱され、まず教典を編纂する準備に取り掛かられます。そして翌昭和21年、教祖六十年祭に全教会へ『みかぐらうた』が下付され、昭和23年10月26日に『おふでさき』(付注釈)も改めて公刊されることになります。

昭和23年2月
小話として、、、、昭和23年2月、上田嘉成謹講『おふでさき講義』が刊行されますが、当時、当局(GHQ)から「にほん」「から」に関するお歌の削除命令がでており、合わせて44首が削除された状態で出版されたものです。その後、昭和48年に同じタイトルで『おふでさき講義』が出版されますが、中身はまったく違うものになっています。

変体がなの『おふでさき』

変体がなの『おふでさき』は、教祖直筆のお筆で記された文字のなかから活字を作り印刷されたものです。(そもそも「変体がな」とは、普通の平がなとちがう字体のかな。漢字の草体から出て徹底した単純化に至る過程にある仮名。と広辞苑では説明されている。)オリジナルの複写ではありませんが、親しく教祖の書かれた字に触れることができることは、信者としてはとてもありがたいことです。できることならば、変体がなに慣れさせていただきたいものです。

オリジナルの『おふでさき』

現在、天理教道友社には『おふでさき付注釋』が販売されています。この4頁目に「教祖様御真筆」(『おふでさき』第一号1-4)が掲載されておりますので、教祖の生の字体もどうぞご覧ください。禁複製と書かれていますので画像はお載せいたしません。ぜひご自分で購入してみてはいかがでしょうか。

まとめ

明治16年のふしや、革新の時代など幾多の困難な時代にさしあたり、『おふでさき』は隠匿から公刊、回収から再び公刊と歴史に翻弄されることになります。しかし、ときの真柱様は、時局が変わるとすぐに信者の手元にわたるよう、心を尽くしてご行動くださいました。それは、

「ひながたの道を歩むおたすけ人衆諸子よ、私は諸子にあやまりなき信仰の熱誠を以て、勇みに勇み「せかい一れつ」の救済に努力されんことを切望する」

(『おふでさき付注釋』「まえがき」より)

という、信者に誤りなき教理を常に携えてもらいたいとの思いからであっただろうと思わせていただきます。

 

ここで得た学びは、

『おふでさき』は常に信者の手元にあるよう手配されてきたということ。

その思いとは、信者には『おふでさき』を身近に携えてもらい、常に神様の思いを求めて生きるということを実現したかったということではないでしょうか。その思いに少しでも応えさせていただくことが、教祖の思いや先人先輩のご苦労にお応えさせていただける道だと私は思います。

さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか~☆