目次
教祖は誠であった
誠について
宮森与三郎という先人は、
「誠というものは心と口と行いと三つそろはにゃ誠や御座いません、誠の話をするくらひの人は世界を探してごらん、竹杷(さらい)でかき集めるほどある、いくら誠なことを言うても、それを実行せねば誠やございません、それは口だけの誠や、教祖はこの三つがちゃんと揃うてあらせられたのや、それで今日の道になってきたのや」
「教祖様は心と口と行いとちゃんと三つそろうてあったのや、それで今日の道になつて来たのでしょう、そやから誠というのは三つそろうてこなければならん、外から見てどれほど綺麗でも中の心が汚れて居てはならん綺麗な身体によい着物を着て、心も綺麗になれば三つ揃うてあつて、これが誠や」
「宮森先生のお話」『みちのとも』大正6年7月号 参照
※読みやすさを考えて、現代文に変更している箇所はあります。※赤字/下線は筆者が付けたものです。
とお話になっています。
教祖は心と口と行いが揃っていた
教祖(おやさま)は心と口と行いの三つが揃っておられた、そして今日の道になってきたと説かれます。
ここで使われている「口」とは「語りかける言葉」のことであり、
「行い」とは「行為」をさしています。
つまり、教祖が仰せになった教えは、自らもお通りになられていたということです。
教祖の言葉は教祖のひながた
図にするなら
誠 = 心と言葉と行為がそろっいること教祖は誠 →つまり→ 教祖は心と言葉と行為がそろっいた。
だから
教祖の心 = 教祖の言葉 = 教祖の行為
同じだった。
ということは、、、
教祖の言葉 = 教祖の行為
こんな感じ
宮森先生のお話によると、教祖のお教えくだされた教えは、教祖の「ひながた」であると考えることができるのです。
つまり、私たちが真似をするべき姿であるということですね。
「朝起き、正直、働き」について
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「二九 三つの宝」という逸話がおさめられています。
ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」と、仰せられた。
伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」と、仰せられた。
伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。「二九 三つの宝」『稿本天理教教祖伝逸話篇』P47 参照
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
朝起きること、
正直であること、
働きものであること、
三つの生き方をお教え下された有名なお話です。
飯降先生はこの教えを生涯まもって通られたと締めくくられています。
宮森先生のお話にある「教祖様は心と口と行いとちゃんと三つそろうてあった」ということを踏まえてこの逸話を拝読するならば、飯降先生が「朝起き、正直、働き」を身に行われていたというだけなく、語りかけている教祖も自ら実行されていたということとなります。
つまり、ただ単に、個別的に飯降先生にだけこのように説かれて、その後、飯降先生が教えの通りに通られたというお話ではなく、
「朝起き、正直、働き」という教えは教祖のひながたであり、私たち人間の陽気ぐらしに向かう生き方として教えられたといえます。
「朝起き・正直・働き」の中身
今回、ここで一つ注目したい点が「朝起き、正直、働き」の中身についてです。
ただ単に字義で考えるならば、朝起きること、正直であること、働くことと理解できます。が、この言葉の意味の手がかりを『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一一一 朝、起こされるのと」というご逸話にみることができるのでご紹介します。
教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」と。
「一一一 朝、起こされるのと」『稿本天理教教祖伝逸話篇』P47 参照
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
「二九 三つの宝」『逸話篇』の飯降伊蔵と「一一一 朝、起こされるのと」『逸話篇』の飯降よしゑは親子関係です。
朝起き
朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。
正直とは
陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。
働きとは
もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。
特に「正直」について
私が特に注目したいのは「正直」ということであります。
正直と耳にしますと、嘘をつかないことや、真っ正直に素直に「はい!!」と返事をして行動することをイメージしますが、(もちろんそういった意味もあるかも知れませんが、、、)
飯降先生の娘である飯降よしゑさんは「正直」ということについて、教祖から「陰でよく働き、人を褒めるは正直」とお教えいただいたのです。
陰について
さらに、天理教は「陰を大切にしなさい」と教えていただきます。
またよしゑの父親である飯降伊蔵先生も、
「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳をつみなされや。人の見ている目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様の受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになるのやで」
『天の定規 本席・飯降伊蔵の生涯』道友社編 21頁 参照
「陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様の受け取りはありませんで。」とお教えいただいています。
誰かの見ていないところで真実を尽くす。
もちろん人が見ていましても真実を尽くすのですが、人の良いところを見つけては褒める。
これが正直という言葉の意味するところであります。
教語の意味理解において心得ておくべきこと
実際のところ、
「正直」についての理解で「陰で人をほめる」という理解をお持ちの方って少ないのではないでしょうか。
教えを勉強していると、言葉が示している意味が、あれ?違うんじゃないか?ってことがけっこうあります。
時代が変わることによって、
言葉は変わらずとも言葉の意味が変わることがあります。
教えを学ぶときは、できるかぎり教祖の時代のことを知り、
現代のイメージで言葉を読み解くことは避けたほうが良いかと思います。現代のイメージだけで教語を理解すると、言葉の持っている本来の意味を取り違えてしまうことがあるからです。
これから教祖の時代からどんどん離れていくわけですから、
教祖の時代のことを理解する努力がさらに求められていくのではないかと思います。
そこで頼りになるのが、教祖とともに歩まれた先人先生のお話になってくるのです。
当時の状況を理解されていますし、そのなかでも教祖のことを実際に見ておられます。そういう意味でも先人が語るお話にふれることは、まじりけのない教祖の教えに近づく歩みといえるのではないでしょうか。
まとめ
ここで得た学び
・教祖のお教えくだされたことは、私たちの「ひながた」である
・正直の意味は、陰でよく働き、人を褒めること
教祖が先人に語られていたことは、教祖自らもお通りになられていたひながたである。この理解にのっとって『逸話篇』を拝読するとき、二百の逸話は単なる先人の話ではなく、自らの生き方を考えるうえでとても重要なお話と受け止めることができるのではないでしょうか。
今回はその中でも「朝起き、正直、働き」について、特に「正直」に込められた意味が「陰でよく働き、人を褒めること」であることが明らかになりました。
また、、聞いて行わないのは、その身が嘘になるで、、、、とお教えいただきますので共々に実行させていただきましょう。
さあ、ともに教えを学んで実行し、より良い生活を過ごしてみませんか☆