最近、様々なかたから「ブログ見ていますよ」と声をかけていただきます。
正直、とーっても嬉しい気持ちになります。
ただ、私は色んな人から学んだことをまとめて書いているだけなので、他人のふんどしで相撲をとっているような気分でもあります。
それでも教えを学んでいただけるキッカケになっているのであれば、それはとても嬉しいことだと考えて今日も張り切って他人のふんどしをはきたいと思います。(笑)
今回は前回にひきつづき「おさづけ」について理解を深めたいと思います。
おさづけはたすけ一条の道のひとつ
おさづけは、教祖がお教えくだされた救済の手だてのなかで、おつとめとならんで重要なものです。
『天理教教典』では
「つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の道である。」
『天理教教典』23~24頁参照
と、おさづけは陽気ぐらし世界を実現するためにお教えくだされたたすけ一条の「手段」であるとお教えいただきます。
おさづけを取り次ぐことで、神様の特別な守護を得ることができるのです。
具体的には、病人におさづけが取り次がれるとき、神様のたすけ一条の恵みを病人に伝達することで、病気は癒えてたすかるのです。
取り次ぐという言葉について
本来、さづけという言葉は普通名詞で【授けること】【授けるもの】という意味をもっています。述語としてのおさづけもこの言葉から由来しています。「神様の守護を授けること」「守護を授ける」という意味もありますが、「授ける手段」という意味が強いようです。
ですから、
教祖の立場からすれば、おさづけは「渡されるもの・与えられる」ものであり、人間の立場からすれば、「頂くもの・取り次ぐもの」ということになります。
ですから、おさづけを「する」ことを、おさづけの理を「取り次ぐ」というのです。
二代真柱様の見解
二代真柱様はおさづけを取り次ぐことについて、このように述べられています。
「さづけはこれを取次ぐ者があってはじめて効能があらわれるわけであるので、ややもすれば誤って、料理道具と料理人において、よい庖丁もよい腕のコックによってはじめてそのよさが発揮されるような場合に比較される。この場合、コックの方に主力がおかれてその腕前が重要視され、庖丁の方は従と考えられるような誤解が起る。このような誤解に基づいて、さづけによって御守護が得られる場合、その功は取次いだ人にあるように考えられてくる。そこから、
”俺がたすけたのだ”とか、
”私は誰々にたすけられた”とか
いうようなことになる。これも一面の理屈ではあるが、たすけ一条の道の一つとしてさづけの意義を考えるとき、このような考えは誤解を生じ易い考えであり、ひいては大きな誤りをおかすことにもなる。」中山正善「教理の体系と信仰の様態」『やまと文化』25頁参照
と、
庖丁(超切れる素晴らしい包丁)
⇒おさづけ料理人(腕の違いがあるもの)
⇒おさづけを取り次ぐ人間
と、このように考えていれば、
おさづけを取り次ぐ者が「自分がたすけた」と考えたり、おさづけを取り次がれた者が「〇〇さんにたすけられた」と誤って考えることになると、仰せられるのです。
人間の側から考える場合、あくまでもたすけるのは神様で、おさづけは取り次ぐものであるという理解が大切と仰せられるのです。
二代真柱様はさらに分かりやすく農業に譬えてお説き分けくださっています。
農業に譬えていうならば
「百姓(農夫)が種子をまいて作物をつくる場合を例として考えるなら明らかとなろう。作物が出来るのは、種子があって出来ることは明らかであるが、作物を自分がつくったように誤って考え易い。実は、太陽の熱とか水とかの守護があってはじめて作物が出来るので、百姓はその手助けをしたにすぎないのである。」
中山正善「教理の体系と信仰の様態」『やまと文化』26頁参照
人間の常識から考えれば、百姓が作物を作ったと考えがちです。
しかし、たとえどんなに優秀な百姓でも、太陽や水の守護がなければ、作物は1mmたりとも成長させることはできません。
おさづけを取り次ぐ人
⇒百姓おさづけによるご守護
⇒作物が出来ること
このように考えれば、
自然の守護を頂戴することができていない作物に、必要なだけの守護を受けられるように丹精することがおさづけ人の働きといえるのではないでしょうか。
自然の働き(神様の御守護)が無ければ作物はできません。
自然のはたらきを作物がしっかりと受けることができるように丹精しお世話するのが百姓の仕事なのです。
つまり、百姓をようぼくに置き換えて考えると、ようぼくは神様の御守護を頂戴することができるように丹精することが、おさづけの取り次ぎであり、ようぼくの役割といえるのではないでしょうか。
おさづけを取り次ぐことが喜び
最後に二代真柱様は
「要するに、取次ぐ者の役目は完全に取次がして頂くことにあり、そこに信仰の喜びを味わってゆくべきなのであるのに、この本筋をはなれて、自分が取次ぐのに努力したことや取次いだことによって生ずる結果などのを重視することは、正しい信仰から逸脱した姿と言わねばなるまい」
中山正善「教理の体系と信仰の様態」『やまと文化』26頁参照
と、おさづけの取り次ぎはあくまでも神様のたすけの理を取り次ぐものであり、その取り次ぎにこそ、信仰の喜びを味わうということが本筋であると仰せられるのです。
まとめ
おさづけの取り次ぎについては、あくまでも神様が人間をたすけてやりたいという思いに浴して、不思議な御守護を頂戴する手段であります。
この不思議な御守護は、人間(ようぼく)がおさづけを取り次ぐということがなければ、たすけを頂戴することはできないものですが、あくまでも、たすけるのは神様であるということを忘れてはいけません。
二代真柱様が仰せられた百姓の譬えから考えると、
百姓の役割は、作物に日光や雨の潤いを頂戴できるようにお世話をさせていただくこととお教えいただきます。
つまり、人間の身の上に現れた病とは、もともとは誰もが平等に神様の守護を頂戴することができるのを、人間の自分勝手な心遣いから頂戴できなくなってしまったことから現れてきた結果ということです。
ですから、神様の御守護を頂戴することができるように、病人のお世話をさせていただくことが、おさづけ人の役割といえるのです。
どこまでも、神様のたすけの理を取り次ぐ人として、謙虚であることはもちろんですが、自信をもって歩ませていただきたいものですね。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみましょう~☆