みなさん。こんにちは。すがけんです。
今回も前回に引き続き「別席の誓い」について理解を深めていきたいと思います。
少し、前回のおさらい
昭和23年(1948)1月、
二代真柱様(中山正善)は、別席を受ける前に実施されていた「初試験」を「別席の誓い」へと変更されました。
その変更の理由は、
別席が始まった当初(明治21年8月2日~)と昭和年代では、別席を運ぶ人の変化が大きいことが理由に挙げられていました。
詳しくいうと、
明治年代においては、別席を運ぶ人が講(信仰をするグループ)の中心人物であったのに対して、昭和年代には、入信してまもない人や、まだ天理教の教えを具体的に聞いたことのない人が、別席を運ぶようになっていたのです。
こうした別席を運ぶ人の変化から、種々と問題が顕在化してきました。この対処として「試験」から「誓い」というスタイルに変更されたのでした。
この問題については前回の記事を読んでくださーい
では、どのような誓いになったのか、
それについて、二代真柱様は、「親神様の思召、教祖様の立場、入信の経路、陽気ぐらしの道をたどる自己の決心」を述べることから、別席をすすめることが現状(昭和23年代)に即しているとし、「別席の誓いの言葉」を作成し、この文言を誓いの席で読み上げる形に変更されました。
そこで今回は
「別席の誓いの言葉」そのものの内容について理解を深めていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
目次
誓いの言葉について
別席の誓いの言葉は以前挙げたページをご参照ください。
誓いの言葉の全般の特徴
まず、お誓いの言葉は「私達」という一人称複数から文が構成されています。これは単なる「天理教の~」と客観的に説明されておらず、別席を運ぶ自己の決心を述べる言葉として、誓いという形態の特徴がここに伺えます。
それでは文章を7つに分けて理解していきたいと思います。
親神様について
私達の親神様は、天理王命様と申し上げます。
紋型ないところから、人間世界をお造り下された元の神様、実の神様であります。
親=神、子供=人間
私たちが信仰している神様は、
人間をご創造してくださった神様であります。
誰もが親から産まれるように、この世界と人間を創造された神様は、いうなれば私達人間の【親】なる存在であります。そこで「親」という言葉を形容詞として「神」に付し「親神様」と申し上げているのです。
神様の名前は「てんりおうのみこと」
その親神様は「天理王命」と申し上げます。
親なる神、親神様のお名前は「天理王命」と申し上げます。
すべてのものに対する感謝、すべてのもののたすかりを願う「おつとめ」では、この神名を繰り返し称えて祈念することからお教えくだされました。
元の神・実の神
そして、「元の神様、実の神様」ですが、
「みかぐらうた」において
「九ッ こゝまでしん/\゛したけれど もとのかみとハしらなんだ」
「十ド このたびあらはれた じつのかみにはさうゐない」
『みかぐらうた』三下り目 参照
※下線は筆者のもの
と、お教えくださる通り、天理教の神様を端的にご説明してくださっています。
繰り返しになりますが、親神様は人間と世界を創造された元なる神であり、今もなお、私達人間と人間が住まいする世界を守護して下さっている神様なのです。それを「元の神・実の神」という一言でご説明してくださっているのです。
いうなれば、私たちの信仰は、
親神様によって世界はつくられ、今もなお守護して下さっているということを信じることから始まると言えるでしょう。
教祖について
親神様は、教祖をやしろとして、その思召を人間世界にお伝え下さいました。私達は教祖によって、初めて親神様の思召を聞かせて頂きました。
教祖は中山みき様と申し上げます。
私たちがこの「天理王命」のことを知ったのは、
空から神の啓示が記された本が降ってきたわけでもなく、預言者があらわれて神の言葉を伝えたからでもありません。
教祖は神のやしろ
天保9年(1838)10月26日より、親神様が中山みきという女性を「神のやしろ」として、人間世界にあらわれたことにより知ることができました。
※この経緯についてはいずれまた詳しく
預言者と神のやしろとの違い
①一般的な一神教の場合
神様
↓
預言者〈神の声を聴いた人〉
↓
人間この場合、人間が神の言葉を聞くときは、預言者が聴いた言葉を聞くことになります。その名の通り、神からの言葉を預かった者という意味ですね。
②天理教の場合
神様
↓
中山みき(に神様が入って)⇒教祖となる〈神のやしろ〉
↓
人間天理教の場合は、神様が中山みきのなかに入り込んで直接に人間に語りかけます。つまり、教祖中山みきの言葉を耳にすることは、神の声を直接聞いていることになるのです。
この点が、一般的な一神教と言われる他宗教との違い(特徴)と言えるでしょう。
陽気ぐらしについて
親神様は、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思召されて、人間をお造り下さいました。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であります。
人間は何のために生きているか?
天理教が特に強調している教えといっても過言ではありません。
何のために私達は信仰するのかが、ここで明確にされます。
すなわち、私達人間は、陽気ぐらしをするために生きているのです。
生きるということは陽気ぐらしをするということなのです。
入信の経路について
私は____________の事から、お手引きを頂いて親神様を知り、その思召を聞かせて頂きましたが、尚一層しっかり心に治めさせて頂きたいと存じまして、この度おぢばに帰らせて頂きました。
この部分は発話者本人の信仰が、より深まった経緯を述べる部分です。
下線部は発話者の自由に任されています。
一般的には「親の勧めから」や「〇〇の病気から」など、発話者自身の信仰のキッカケを述べることになります。
神の導きでいるというだけでなく、自ら聴かせていただきたいという心も大切
この下線部分は人それぞれで違いがあります。
親神様に造られた人間は皆兄弟ではありますが、それぞれこれまで通ってきた道には違いがあります。
神様は、人間が通ってきた道に合わせて天理教に引き寄せられます。
そして私たちは自らの意思で神様の話を聞いて、天理教を知るのです。
神様からの導きだけで別席を聞くことになったというわけではなく、発話者自身が親神様の思召を聞かせていただきたいという自発的な心で、おぢばに帰ってきたことを誓わせていただくところに、別席のお話は付き合いで聞く話ではないことを強調されているように思います。
ぢばについて
このおぢばは、親神様のお鎮まり下さる所で、よろづたすけのつとめ場所であるとお聞かせ頂いております。
ここでは「ぢば」の二つの意味合いが説明されています。
二つのぢばの意味
一つ目は親神様がお鎮まりくださっている場所であるということ。
もう一つはよろづのたすけを願う「かぐらづとめ」をつとめさせていただくという意味です。
教祖のひながたは、極端にいえば、人をたすけるための手段である「おつとめ」の完成のための道であったといえます。このおつとめ(かぐらづとめ)をつとめることができる「ぢば」こそ、すべての人間がたすかる源になる場所なのです。
陽気ぐらしの道をたどる自己の決心
おぢばでお仕込み頂く親神様のみ御教をしっかり心に治め、教祖をお慕い申し、そのひながたを辿り、親神様にご満足して頂き、人様に喜んで貰うよう、つとめさせて頂きとう御座います。
そして最後に、別席を運ぶにあたっての締めくくりの一文になります。
別席はぢばのある親里でしか聞けない
「ぢば」のある親里において別席は取り次がれます。別席を聞ける場所は親里以外にはありません。それを改めて意識づけてくれる文から始まります。
自らがひながたを辿ることの約束
そして、発話者自身が陽気ぐらしができるようにと、教祖が五十年にわたってお通りくださった「ひながた」を辿ることを約束します。
別席を聞かせていただく最後の決意
そしてそして、最後の最後に「人様(ひとさま)に喜んで貰うよう、つとめさせて頂きとう御座います」と、親神様の思召しに沿う、人をたすける心「誠真実」に徹するということを約束するのです。
まとめ
このようにして見てまいりますと、
「人様に喜んで貰うようつとめさせて頂く」という一文に、別席のお話を聞かせていただく目的が明らかになっているように思います。
別席を九回聞かせていただくのは「人様に喜んで貰うよう、つとめさせて頂く」という「誠真実」にならせていただくために聴かせていただくのです。
じっくりと誓いの言葉を見てまいりますと、
天理教のエッセンスがギュッと凝縮された素晴らしい文章になっています。そして最後の最後に、どのような生き方に切り替えていくのかも明らかにしたうえで、別席の目的を明らかにしてくださっているのです。
なんて、なんて、丁寧なんだ。。。
別席を運ぶ人はしっかりと誓いの言葉を心に治めてから別席にのぞむことが望ましいとしか言えないですね。
そして、別席に人をお連れする者も、誓いの言葉が別席を運ぶ人に伝わるように、心に治めてもらえるように努力させていただきたいものです。
少なくとも心の片隅には必ず持っておきたい点であります。はい。心の片隅には置いておこう!!!
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
さぁお道の教えを学びましょう。そこからどんどん信仰が明るくなる☆