天理教教会本部の南門解体について

みなさん。こんにちは。すがけんです。
いつもブログをお読みいただきありがとうございます。
今年は一週間に一回の更新をさせていただこうと心に決めて努力しております。もし続かなかったらすいません。末永く気長にお付き合いください。
よろしくお願いいたします。

さて、今回は黒門について取り上げたいと思います。

立教181年春季大祭後から南門解体

教会本部南門、通称「黒門」が解体されることになり、いま(2月3日現在)着々と解体にむけた作業が進められています。解体直前に黒門の状態を確認しておこうと思い、近くで写真をとらせていただきました。

 

本柱(ほんばしら)の控柱(ひかえばしら)

 

脇門(わきもん)の控柱(ひかえばしら)

 

脇門(わきもん)の腕木(うでぎ)部分

 

本柱(ほんばしら)の足元部分

今まで何度も黒門を行き来していましたが、これほど劣化が進んでいたのには気がつきませんでした。
それと共に、天理教教会本部の営繕部が細かく修繕してくださっていたのが改めて良く分かりました。
人知れず、私たちの眼の届かないところを守ってくださっていた働きに頭が下がります。本当にありがとうございました。

 

南門の歴史

老朽化が著しい南門(黒門)ですが、建設されたのは今から82年前の昭和11年(1936年)1月20日。教祖50年祭を目前にひかえた昭和普請で南礼拝場が竣工したのち、参道整備の一環として建設されました。

当時の時報によると、

改装される本部前庭の真中に建てられる正門工事は他の諸工事と共に着々進捗、五十年祭も迫つたことゝて年内に是非完成すべく数十人の職人や数百の別科生ひのきしんによつて工を急ぎつゝあり既に基礎工事は終り門柱の蕊となる鉄骨も組み立てられた、

『天理時報』昭和10年12月22日 参照

とあります。
数十人の職人さんと数百人の別科生(6カ月の修養)がひのきしんで工事にあたったと記されています。
そして現在では南門と呼称していますが、当時は正門と記述されています。
さらには「基礎工事は終り、、、鉄骨も組み立てられた」と記されています!!
全然気にとめていませんでしたが、
黒門の表面は木材ですが、中身には鉄骨が使用されていたのです。

このように、当時の教会本部においては、
黒門の姿こそ変わりませんが正門と呼ばれていました。
それが現在では、南門という呼称に変わっています。
これは、おぢばを取り囲む神殿の状況や境内地拡張にともなって変わったものと思われます。
詳しくは以下をクリック

黒門から南門へ ~南門の歴史それぞれ~

2018年3月5日

おそらく、東西礼拝場が完成(昭和59年)し、四方正面鏡やしきの形になったことから、どの方角も正面と考えられたので、正門という呼称から南門という呼び名に変更されたのだと思います。(詳しくはまたいずれ、少なくとも昭和59年の『天理時報』には南門と表記されています。)

 

黒門が建設された当時のおやさとの様子

昭和11年 天理教教会本部を南から眺める
『みちのとも』昭和11年11月号 より

南北の神殿の真正面に立つ南門、当時の周辺の建物の大きさから考えるとひときわ存在感があるように感じられます。
そして、当時は門につらなる形で白壁の塀が東西に続いていました。
さらに正門の西には「西脇門」として以前から使用されていた門が、南へ移動して以後も使われたようです。

 

宗教的建築物としての門の役割

そもそも宗教的な建物における鳥居などは、神を祀る空間と人間の空間を繋ぐ意味を持っていると言われています。
ですが、黒門に対して教理的意味合いをもっていたとは聞いたことはありません。

門とは直接関係ないことではありますが、
学生時代、お世話になった先生が本部へ参拝にいくことを「神殿へいく」とは言わず、「おやしきに伺う」と仰せられていました。
私はこの言葉を耳にしたとき、この先生にとって、おぢばは参り場所としての神殿というよりも、存命の教祖がまっておられる場所という意味合いで「おやしき伺う」と仰ったことに心から感動しました。

「おぢばに帰る」という行動は同じでも、自らにとってどういう意味を持つのか。
それは考え方によって違いが生まれます。
建物に対しても同様で、
建物は同じであっても、見る人の考えに違いがあれば、建物のもつ意味にも違いが生まれるのです。
多くの方は黒門に対して特別な信仰対象としての自覚はなかったと思いますが、もしかすると、自分なりの信仰的な意味合いをもっておられた方もいたかもしれませんね。

 

まとめ

今回は南門撤去にともない、南門の状態、歴史、門について考えてみました。
そのなかで印象的だったのは、
昭和11年のおやしきの情景です。
写真をよく見ていると、82年前と現在では全然姿が違うということです。

時間をかけて、親里は新しい建物が増えるとともに、それまで使われてきたものが姿を消すということを繰り返して、現在のおやしきがあるのです。
そう考えると、教理的意味がないのであれば、いつか黒門もなくなる日がくるかもしれませんね。心情的には寂しい気もしますが、、、

当初は「黒門は立て直す」という情報も耳にしていましたが、
『天理時報』には解体としか記されていませんでしたね。
建築予定はまだたてられていないということでしょうか・・・

黒門が建てられるのかどうかは先のお楽しみということにして、
82年間、ぢばの南に建ち続けてきた黒門
本当にお疲れさまでした。

そして陰ながら守り続けてくださった天理教営繕部のみなさん!
ありがとうございまいた!!
寒い日が続くと思われますが解体よろしくお願いいたします。

今日はここまで

最後までお読みいただきありがとうございまいた。