みなさん。こんにちは。すがけんです。
前回の投稿
読者の皆様ありがとうございました。
これからも当ブログを見ていただけるように、精進してまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
今回も飯降伊蔵先生のご逸話をもとにして学ばせていただきたいと思います。特に焦点を当てさせていただくのは「親切」ということです。よろしくお願いいたします。
お道における親切とは
なが~いお辞儀のご挨拶
~飯降伊蔵先生の晩年に接した人の話~
飯降伊蔵先生にご挨拶するとき、頭を下げて、もうよいと思って頭を上げると、飯降伊蔵先生はなお頭を下げておられた。恐縮して二度下げ直したことが何度もあったと伝えらえています。
一日という時間は誰もが平等に享受するものですが、一日の間でお辞儀をする回数は人によって違いがあるものと思います。
日常のなかで、あたりまえのように頭を下げることを繰り返していると、
感謝の気持ちから行っていたお辞儀が形式化してしまい、いつのまにやら心のない雑な挨拶になっていることもあるのではないでしょうか。
上記のお話だけでは、飯降伊蔵先生のお心の核心に迫り切ることは困難ですが、おそらく、相手に対する感謝の気持ちが、長時間、頭を下げて挨拶する姿に現れていたのではないかと思わせていただきます。
実際、深々とお辞儀をしていると、相手に対して感謝の気持ちがわいてくるものです。そして、お辞儀をしてもらった側としては、恐縮することはあっても、不快な気持ちになる人は少ないように思います。
だれかれの区別なくご挨拶
飯降伊蔵先生が深々とお辞儀をしてご挨拶されたのは、お宅の中だけのことではありません。お墓地へ向かわれる道中でも、だれかれの区別なくいちいち挨拶を繰り返したと伝えられます。
飯降伊蔵先生は教祖より「理を立てて身が立つ。人を立てた理によって身が立つ。必ず人様を立てるようにして、自分は上がらぬようにせよ。」とお言葉を頂戴されていたと伝えられます。
このお言葉を胸にして、どんな立場の方に出会っても相手を立て、自分自身は低い心で通ることを飯降伊蔵先生は生涯守って通られたのでしょう。
真心こめてご案内
飯降伊蔵先生の相手を思う気持ちは、姿を変えて様々な形で伝えられています。
ある人のお話では、飯降伊蔵先生は本部の人には厳しくご注意されたと伝えられます。
特におぢば(天理教教会本部)へ参拝された信者さんの受け入れについては、とても厳しく注意されたと言われています。このようなエピソードがあります。
遠方からおぢばに帰られたある信者さんが「〇〇の詰所はどこですか?」とお尋ねられました。青年が口で説明しようとすると、
「これはいかん。遠国から来て、西も東もわからん者に、どちらこちら言うてもわからへん。それより、ちょっとひと足、先に立って案内してやってくれ」
と、お諭しになられたと伝えられます。
現代に比べれば交通の便が良いとは言えない時代、遠く離れた土地から、遥々帰られた信者さん方を思われる飯降伊蔵先生のお心がにじみでているお話です。
それとともに、
本部で務めるものに対してご注意なされたということも、これもまた相手(本部で務める者)を思うなればこそ、育てようという親心から生まれた言葉だったのではないでしょうか。
まとめ
何事も人に満足を与えて通るように努められた飯降伊蔵先生。
深々とお辞儀をして挨拶をされたことや、信者さんを詰所までご案内するように指示されたことも、相手のことを思いやればこそ、お道の人の親切を表した姿と言えるのではないでしょうか
「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」(『稿本天理教教祖伝』25頁参照)と、教祖より教えられた通りのことを具体的に指示され、そして自らも生涯守って通られたのです。
この道の信仰では、神様に対して人間はみな兄弟であるとお教えいただきます。この教えを信じて姿に表していくならば、飯降伊蔵先生のように、分け隔てなく相手の心に満足を与えることのできる信仰に近づいていくのではないでしょうか。それが陽気ぐらしがひらかれるお道の歩みであります。
とは言いつつも、、、
大きく変わることはなかなか難しいものです。
それぞれの置かれている立場もちがいますからね。
でも、少しでも人のことを思い、満足してもらえるように心を働かせれば、
必ず未来は陽気ぐらしへと近づいていきます。
それはある意味でなが~く続くお道の未来につながると思います。
時には失敗することもあるでしょう。
けれど、私たちは反省をして歩みを修正していくこともできるのです。
共々にがんばってまいりましょう☆まずは微妙に長いお辞儀から。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみましょう~☆
『天の定規 本席・飯降伊蔵の生涯』天理教道友社