飯降伊蔵先生は神様に好かれた誠の人であったと伝えられます。
※飯降伊蔵先生がどのような人物であったかについては以下のページをご参照ください。
物を粗末にしては天の理に叶わない
飯降伊蔵先生は物を粗末に扱うことを戒めて通られていたと伝えられます。そんな道中、お近くの方にこのように仰せになっていました。
「人間というものは、この世で住まわしてもらうには、何からでも陰徳を積ましてもらわねばならん。徳は頂けん。そこで人間、普通のことをするのは当たり前や。陰徳は、些細なことや。こうすれば後のためになる、人のためになる。この些細なことに気をつければ、陰徳は積まれ、神様は喜んでくださるのや。人に言われてするのは陰徳ではない。こうすれば腐らぬ、痛まぬという心が大事や。粗末にしては天の理にかなわん」
『天の定規 本席飯降伊蔵の生涯』天理教道友社、144~150頁
※色文字は筆者が付けたもの
このように、陰徳とは些細な心遣いであるとしながら、その角目として
後々の人のためになるように、物を大切にすることが、神様の思召しに適う心遣いであると語られています。そして人から言われてするのではなく、自らすすんでさせてもらうところに陰徳がつまれると仰せられます。
つまり、
陰徳をつむ
↓
神様が喜びくださる/天の理に適う陰徳を積む行い
↓
後のためのなること/人のためになること陰徳となる条件
↓
人に言われてするのではなく、自らすすんで行う。
ということですね。
夜ひそかに橋の修理をされる
飯降伊蔵先生は、明治15年(1882年)におやしきに入り込まれるまでの20年間、毎日のようにおやしきに通われました。
あるときは朝早くから、またあるときは大工仕事の終わってからと、足しげくおやしきに通われ真実を伏せこまれました。
そんな道中でも陰徳を積む姿が見受けられます。
夜中におやしきから帰る道中、飯降伊蔵先生は壊れた橋を見つけては補修していまいた。いつしか、この行いが村人の察知するところとなり、「どうも伊蔵さんらしい」との噂がながれました。それを耳にした飯降伊蔵先生は「困ったことになってきたわい」ともらしたといいます。
小さなことかもしれませんが、後々のため、次に使う人たちのためにと、近村の人たちが困らぬようにと心を配られていた姿は、まさに「はたらく(側楽)」という教えの実行といえます。
頂き物は瞑目して感謝される
飯降伊蔵先生は本席という立場になられてからも、変わらず物は大切にあつかわれました。
教祖が現身を隠されてのち地方からの信者が大勢帰り集うようになり、飯降伊蔵先生へは土地の名物や珍しいものを届けられるようになりました。
頂戴された際、飯降伊蔵先生は瞑目してお礼するのが常でありました。
たとえ、わずかな物であっても、高価なものであっても、決して差別することはなく、目の前において、「結構なものやなぁ」「珍しいものやなぁ」と横からも縦からも眺めまわして、その人の真心に満足を与えたと言われます。
そして天の与えとして神様のお礼申し上げたと言われます。
行灯(あんどん)の油のこと
飯降伊蔵先生は物を大切にして、始末した暮らしをしていたと伝えられます。
自宅からかんろだいへ向かわれるときや、また教祖殿へ参拝するときでも、必ず部屋の行灯を消して出かけられたそうです。
あるとき、お共をしていた人が、「火はお消しにならなくても、すぐお帰りになるのですから」というと、「私はこの世で徳を来生まで持ってゆきたいから、こうして火を消しておくのや」と、日常の些細なことにまで心にかけて、来生まで目した行いに徹したと言われています。
まとめ
飯降伊蔵先生の逸話を拝読していますと、「あぁそうやな、、、」と自然に心に染み入るような気がします。
「おふでさき」に「たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(三号40・135)とお教えいただく通り、私たちは神様の懐住まいをしています。
この真実が心に治まれば、自ずと「物を大切にする」ということが日々の姿に現れてくるのでしょうし、「物を大切にする」という行いを重ねていくところに、神様の懐住まいをしているということが分かるようになるのではないでしょうか。
また「おさしづ」においては「陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。」(「おさしづ」明治三十年十二月十一日)と、陽気にくらすには、後々の人々のことを考え、苦しませるようなことのないようにとお教えいただきます。
飯降伊蔵先生が語られた「こうすれば後のためになる、人のためになる。」という言葉や、橋を直した行いは、こうした教えを実際に治めておられた姿の現れといえるのではないでしょうか。
物が飽和する時代、物を大切にして通らせていただくことを忘れがちな生活のなかで、物を大切にするという教えを治めて通ることで、物に対する慈しむ心が生まれ、お与えいただくすべてのものに対して、感謝の念をもつことができるようになると思います。
そして、その物の使い道は「こうすれば後のためになる、人のためになる。」という心をはたらかして、活かして使うようにすることが、陽気ぐらしへの歩みであると飯降伊蔵先生からお教えいただいたように思います。
少しづつではありまがすが、「物を大切にする」という教えをもとにして心を磨く道を歩ませていただきたいと思います。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみましょう~☆