ひながたの道は御守護を感じれる道

ひながたのはじまり

二十年三十年経ったなれば、、、

天保九年(1838年)、教祖(おやさま)は四十一歳で「月日のやしろ」※とお定まりくださいました。
※月日のやしろとは、神様が入り込んで思召を伝える立場を意味し、教祖の立場を表わす際に用います。
そのとき行われた神様と人間のやりとり(問答)の中で、

「今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」

『稿本天理教教祖伝』七頁 参照

と、神様は人間に対してお諭しになられました。

人間の常識から考えれば、今のことしかみえていないことが殆どです。
しかし、神様は「二十年三十年経ったなれば、」とお諭しになりお導きくださいました。

貧に落ちきる目的

難儀なる者の味が分からん。

教祖は「二十年三十年」という年限を示されて、陽気ぐらしへの道を歩まれ人間をお導きくださいました。その教祖がとられたはじめの道は「貧に落ち切る」ということでた。

「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」

「四 一粒万倍にして返す」『稿本天理教教祖伝逸話篇』3頁 参照

と仰せられて、徹底して人にものを与えるという道を進まれました。
そして、明日には自分たちが食べるお米がないというところまで施し続けられました。

当時、中山家があった村では、当主である善兵衛を称えて「善兵衛さん地持ち」とうたわれるほど中山家は裕福な家であったと言われています。
この史実を、形のうえだけで判断するならば、裕福であった家がすべてを手放し、無一文になってしまった、と、このように考えることもできるかもしれません。

しかし、この史実を読み解くうえで大切なことは、
「難儀なる者の味が分からん」という点に重きをおいて史実を読み解くことにあると思います。

無くしてはじめて大切さにきづく…

私たちは普段、たくさんの「もの」に囲まれて暮らしていますが、周囲に沢山の「もの」があるゆえに、物のありがたさを感じながら生きている人は多くはないように見うけられます。
しかし、生活環境の変化や、身体の不調に見舞われたとたん、健康であることの結構さや、何気なく飲んでいた水のありがたさを感じることができるようになるのです。

繰り返しになりますが、私は貧に落ち切るということの目的は、親神様の御守護をありありと感じることができるということであると思うのです。

物のありがたさに気づくと感謝が生まれる

それはつまり、神様のご守護に対する感謝の心を持たせていただく元となるのです。

人に物を施して貧に落ちきる

物のありがたさに気づく / 神様のご守護を感じる

神様に対する感謝の心が生まれる

笑顔で過ごせる

教祖は、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」と仰っしゃりながら、息子の秀司先生や、娘のこかん様と共に、

「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」

『稿本天理教教祖伝』40-41頁 参照

とお諭しになり、共に貧のどん底をお通りくださりました。

「水を飲めば水の味がする」というお言葉でお示しいただく「親神様の御守護をありありと感じる」境地には、なかなか近づくことができませんが、、、少しでも近づせていただきたいと思う今日この頃であります。

 

まとめ

・どんなに困難な境遇であっても、神様が守護してくださっている

不都合と思えるなかにこそ、日頃、あたりまえに思っていたことの尊さを思い返すことができるチャンスがあるのです。
教祖は人間の目から見て不都合と思えるなかを喜び勇んでお通りになられました。教祖のひながたにならい、自分にとって不都合と思えるなかに、神様のご守護に目をむけ、感謝するとともに、人の心に寄り添うことができるように通らせていただきたいものです。

さあ、ともに教えを学んで実行し、より良い生活を過ごしてみませんか☆