原典について ~『おさしづ』と本席について~

これまで「おさしづ」については、教祖の御口を通して示された神様の言葉であると述べてきました。しかし「おさしづ」全七巻に収められている神様のお言葉のほとんどは、飯降伊蔵先生のお口からでたお言葉です。

※飯降伊蔵先生 肖像画

なぜ教祖(おやさま)のお言葉を飯降伊蔵先生が伝えるようになったのかについては、「教祖存命の理」が一つのポイントになります。

教祖存命の理とは?

簡単に言いますと、
教祖は明治二十年(1887)正月二十六日に現身をお隠しになられました。
しかし、その後も永遠に元のやしき(天理教教会本部)に留まり、世界中の人間をたすけるために、姿は私たち人間には見えませんがお働きくださることになりました。そのことを「教祖存命の理」と言います。

飯降伊蔵先生が本席に定められたのは、教祖が現身を隠されることと、教祖存命の理の表れということなのです。ではそれについて詳しくみつめていきたいと思います。

本席定めの「おさしづ」

飯降伊蔵先生が本席という立場になられる際、神様からはこのようにお言葉がありました。

「さあ/\あちらこちら、摘まんだような事を聞いて居た分には分からんで。これしっかり聞き分けねば分からん。神というものは、難儀さそう、困らそうという神は出て居んで。今に始まった事でない。こゝまでほんに成程と思うた日もあろうがな。それ国々から先々まで、受け取りたる処もある。それ故渡すものが渡されなんだが、残念情無さ、残念の中の残念という。今に神が今に降がる、出ると言うた処が、承知出けまい。紋形の分からん処から、神がこのやしきに伏せ込んだ。さあこの元を分かれば、さあ知らそう。承知が出けば知らそう。承知が出けねばそのまゝや。さあ返答はどうじゃ。無理にどうせと言わん。」

明治二十年三月二十五日 午前五時三十分

 

内容がとても長いので、要約いたしますと、

神様が今まで何度も説いてきた話を、本筋を心に治めず枝葉のことだけを聞きかじっているようでは何もわからない。だからしっかり聞いて心に治めてもらいたい。
お前たちに難儀をさせようとか、困らせようというつもりで神は表に現れたのではない。今までに、お前たちも「なるほど」と思った日があったはずである。
これまでどんなに遠方にいる者でも、神はその尽くした真実を確かに受け取ってある。その真実の心に渡すものがあるのだが、いまだ渡さずにいる者もある。それを残念に思うのである。親としては、誠に残念でならない。
今、急に神がさがる、神が現れると言ったところで、おそらくお前たちには納得ができないであろう。何もないところから、神がこのやしきでたすけ一条のために丹精したその根本がわかったなら、これから先のことを知らせよう。
承知ができたなら知らせよう。もしできないということであるなら、そのままである。返事は承知か不承知かどちらなのか。無理にどうせよと命令はしない。

つまり、以下、二つの点ついてお尋ねになられています。

①おさづけの理について
「おさづけの理」を渡したい者もあるが、渡せずにいた者がある。

しかし、神が渡す「おさづけの理」を、急に神がさがる(降りてくる)といって人間が渡し始めても、おそらく納得できない人間もいるであろう。その点、みんなは納得できますか?

③おさしづについて
神がこのやしきでつとめてきたたすけ一条の根本がわかったなら、これから先のことを知らせたいと思うが、みなは神がこれから先のことについて指図してくださることを望みますか?

という、とても簡単にいうなら、この2点について考えてもらいたいと、
神様から人間に対して仰せられるのです。

それについて人間側サイドは、
「内の者答『いかにも承知致しました』と申上ぐれば、神様より」
と、二つの点、内の者(→中山家の人々)「承知いたしました」とお答えになられます。そして引き続いて神様より、

「仕事場」から「本席」へ

「さあ/\しっかりと聞き分け。今までは大工と言うて、仕事場をあちらへ持って行き、こちらへ持って行た。それではどうも仕事場だけより出けぬ。そこで十年二十年の間に心を受け取りた。その中に長い者もあり、短い者もある。心の働きを見て、心の尽したるを受け取りてあるから、やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、今までの昵懇の中である故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたゑで、それに区別がある。この通りに、受け取りてあるものがある。それを渡すには、どうも今の処の仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このまゝでは残念々々。さあさあ本席と承知が出けたか/\。さあ、一体承知か。」

明治二十年三月二十五日 午前五時三十分

 

簡単に訳しますと、
今までは、大工と言って「仕事場」を心やすく、気軽に取り扱ってきた。しかし、それでは「仕事場」としての働きだけしかできない。十年や二十年と信仰している間に、それぞれが尽くした真実は神が受け取っている。その信仰した年限において、たとえ長短はあるにしろ、心の働きを見て、尽くした心の真実は神が受け取っている。
その真実に対して渡したいものがたくさんある。しかし、今までの通りの「仕事場」という立場で渡しても、あまりにも身近で親しい間柄なので、軽く渡したように思うかもしれない。
実は、この渡したいものとは天の与えであって、これはいくつか種類がある。これまでにもいろいろな与えを教祖からもらっている者もある。このような有難い天の与えを渡すのに「仕事場」という理で渡したのでは、とかく、その理が軽く扱われるむきがあるので、その「仕事場」という理を改めて「本席」と定めて渡そうと思う。ともかく、このままでは残念でならない。「本席」と定めたことを承知できたか。
と、仰せられているようです。

つまり、、、、神様としては、

①おさづけの理を渡したい。
神様としては「おさづけの理」を渡したいと思っている。

②「仕事場」から「本席」へ
おさづけの理を軽く扱ってはいけないから、「仕事場」という立場から「本席」という立場に改めようと思う。これについて承知できますか?
と二つの点をお尋ねになられます。

ん?ちょっとまって!!!そもそも「仕事場」ってなんですか?
では、少しだけ仕事場について、

仕事場について

教祖ご在世当時、さまざまなおさづけが信者に渡されます。
そのなかでも扇(おうぎ)や御幣(ごへい)によって、神様のさしづを知ることができるおさづけが渡されます。これを「扇のさづけ」「御幣のさづけ」と言います。
飯降伊蔵夫婦は助けていただいてから、何度かおぢばに帰られた際、夫婦そろってこのおさづけを頂戴されます。
その後、明治8年(1875)ごろに「言上のさづけ」を頂かれます。
「言上のさづけ」は「言上のゆるし」とも呼び、願い人の身上や事情に関する願いについて、扇を持って伺うと、神様の指図が言葉として出てきてそれを伝えたと言われます。
そして明治13年頃に至ると、教祖は身上のさわりや事情のもつれの内容に関する伺いは「ほこりの事は仕事場へ回れ」と、飯降伊蔵へ伺うように指示されるようになります。そのように言われた人々は、おやしきから櫟本を訪ねるということをされていたそうです。

では、、、、

ここまでのことを整理しておきますと、仕事場という立場から本席に変わると以下のようになるということです。

 

「仕事場」としてできることは伺いに対して神意を伝えることだけです。
本席という立場にすることで、教祖の代理としておさづけの理を渡し、積極的に神様から神意をつたえる「刻限」ということが行われるようになりました。

そして、
「真之亮より、飯降伊蔵の身上差上げ、妻子は私引受け、本席と承知の旨申上ぐれば、引続いて」
というように、新之亮さまは飯降伊蔵先生を神様に差し上げるとまで仰せられ、飯降先生の妻以下子供は中山家で面倒を見ると仰せられて、本席にしてもらいたいとお答えになられます。すると、

一寸頼み置くと言うは、席と定めたるといえども、今一時にどうせいと言うでない。三人五人十人同じ同席という。その内に、綾錦のその上へ絹をきせたようなものである。それから伝える話もある

明治二十年三月二十五日承前

ざっと要約いたしますと、
飯降伊蔵を本席と定めたと言っても、今、直ちに改まってどうこうせよ、と言うのではない。三人、五人、十人という人が同席、同輩している。本席というのは、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。すなわち、澄み切ったうえにも澄み切った心に本席という理を授けるのである。今後、本席として、いろいろと神意を伝えるであろう。
と仰せになります。

①飯降伊蔵の他にも同じほど伏せこんだものはある。
②飯降伊蔵の澄み切ったうえにも澄み切った心に本席という理を授ける。
③今後は本席という立場で神意を伝える。
という3点をお伝えくださいました。

このような言葉をもって、飯降伊蔵先生は本席と定められ、かつては教祖から直々にお渡しいただいていたおさづけの理を、その後は本席の理において伊蔵先生がお渡し下されることになりました。それと共に、真実の道を外さないように、事にあたり折にふれて「おさしづ」という神意を示されることになったです。

まとめ

簡単にざっとまとめますと、「教祖存命の理」があって飯降伊蔵先生が本席に定められ、「おさづけの理」が渡されるようになり、「おさしづ」が残されたのです。
今回は飯降伊蔵先生に焦点をあてながら「おさしづ」が残されるまでの経緯についてみてまいりましたが、続きはまた次回に回したいと思います。