みなさん。こんにちは。
すがけんの天理教のみかたをご覧いただきありがとうございます。
今回も「おかきさげ」の理解を深めていきたいと思います。
今回は前回の内容とのつながりが深いので、前回の
をご覧いただいていない方は、まずこちらをご覧いただいてから読んで頂けますと、より理解が深まると思います。
どうぞご覧ください。
目次
「おかきさげ」本文
「受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」
『仮席の栞』3頁
今回は、上記の部分について理解を深めていきます。
自由自在は各々の心の理にある
前回
において「自らの心をしっかり神の思いにそって定めれば、その心にのって神は自由自在に働く」ということを、学ばせていただきました。
私達の心はすべて神様がお受け取りくださっています。
そして、各々が日々に使っている心の理によって、神様から自由という一つの理、すなわち自由自在のご守護を頂戴できるのかが決まると教えられます。
ですから、日々のうえに起こってくる出来事は、他人のせいでもなければ、神様のせいでもありません。
すべては自分の責任なのです。
自由自在について
そもそも、
自由自在(じゅうようじざい)に働かれると教えられますが、自由自在について考えていきたいと思います。
一言でいえば自由自在とは「思い通りになる」という意味です。
諸井政一遺稿『改定正文遺韻』には以下のように記されています。
『改定正文遺韻』
「このたび、おやさまより、御じいうよう、御はたらきの理を、御きかせくださいまして、ぜん申す通り、ちゑもしこみ、がくもんもしこみ、よろづのこと、だん/\とをしへてきて、十のものなら九ツまでをしへたで、此のたびは、その残り一ツを教へるでと、きかせられます。
そこで、九ツまでをしへていたゞいてあるから、世上においては、なにもふじいうふそくはない。べんりで、ちやうはうで、けっこうなせかいでございます。たった一ツ、めい/\おもふ事が、おもふやうにならん。しようとおもふ事がならずして、しようまい、なるまいと、おもふこともなつてくる。とんと、めい/\のおもふやうにばかりはいかんといふが、これが一ツのふそくである。
そのふそくをないやうに、おもひ通り、おもわくどほりかなへてやつたら、それで十分やろ。このたびは、こゝの一ツををしへる道であるで。十のかずなら、一ばんしまひの十目のをしへ。すなはち、とめのをしへや。だめのをしへやで。」
『改訂正文遺韻』177頁 平成26年復刻発行
「この度、教祖より、御自由、御働きの理を、御聞かせ下さいまして、ぜん申す通り、知恵も仕込み、学問も仕込み、よろづのこと、だん/\と教えてきて、十のものなら九ツまで教えたで、この度は、その残り一ツを教えるでと、聞かせられます。
そこで、九ツまで教えて頂いてあるから、世上においては、何も不自由不足はない。便利で、重宝で、結構な世界でございます。たった一ツ、めい/\思う事が、思うようにならん。しようと思う事が成らずして、しようまい、なるまいと、思うこともなつてくる。とんと、めい/\の思うようにばかりはいかんというが、これが一ツの不足である。
その不足をないやうに、思い通り、思惑通りに叶えてやつたら、それで十分やろ。この度は、こゝの一ツを教える道であるで。十の数なら、一番終いの十目の教え。すなはち、とめの教えや。だめの教えやで。」
人間は自分の思い通りにならないことを不足と感じます。
それを願い通りにして頂き、思い通り、思惑通りにことが運ぶようになることが、この道の信心であるとお教えいただくのです。
さらに、
「そこでおもひどほり、おもわく通り、かなふやうになるといふは、一寸きいては、そんな事ができるものか、そんな事になれさうな事があらうか、といふやうなものである。けれども、だん/\この道に入りて、かしもの、かりものの理をきゝわけ、きゝわけた理を守つてゆけば、だん/\おもふやう、おもわくどほりにかなひます。とりもなほさず、おもふとほりの御はたらき、御しゆごうがいただけるのでございます。
そこで、ようはなしをきいた上にもきいて、理をきゝわけ、理をまもるが第一でございます。これが此道のしんじんでございます。」『改訂正文遺韻』178頁 平成26年復刻発行
「そこで思い通り、思わく通り、適うようになるというは、一寸聞いては、そんな事ができるものか、そんな事になれそうな事があらうか、というやうなものである。けれども、だん/\この道に入りて、かしもの、かりものの理を聞き分け、聞き分けた理を守つてゆけば、だん/\思うよう、思わく通りに叶います。取りも直さず、思う通りの御働き、御守護が頂けるのでございます。
そこで、よう話を聞いた上にも聞いて、理を聞き分け、理を守るが第一でございます。これがこの道の信心でございます。」
思い通りとは自分勝手の思い通りではない
これはあくまでも、人間の自分勝手な心遣いによって現れてくる「思い」通りではありません。
自らの心が神様の心に近づくことによって、神様の思召しと自らの心が重なり、神様の思召が自らの心に映ることを「思惑が叶う」と感じれる状態をもって、思い通りになるとお教えくだされているのです。
大切なことは思い通りになるプロセス
『正文遺韻』では、私たちの信仰は「思い通り、思わく通りになる」とお教えいただきます。
この「思い通り」は、神様のおはなしを聞いて、身に行い、それを守って歩むという、一連のプロセスの後に味わえる世界であるとお教えいただくのです。この点を忘れてはなりません。
神様の思召しは「誠」の心
では、自由自在を頂戴できる歩みとはいかなるものであるのか。
つまり、何を身に行うのかということです。
「おさしづ」に
「常に誠という心あれば、その場で天の理が直ぐに受け取る、直ぐに返やす/\。自由自在は、めん/\の日々通る常にあるのやで。」
「おさしづ」明治二十一年十一月十一日
というお言葉がございます。
日々常に誠という心があれば、神様はすぐにお受け取りくださり、自由自在の守護を与えると仰せられるのです。
つまり、図にすると以下の通りですね。
常に誠の心
↓
神様が受け取られ
↓
自由自在のご守護を頂戴できる
また他の「おさしづ」でも、
人間というものは、皆神のかしもの。いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。自由自在何処にもあらせん、誠の心にあるのや。身は神のかしもの、心は我がもの、心次第にかしものの理を聞き分け。
「おさしづ」明治二十一年二月十五日
「自由自在は誠の心にある」と明確に自由自在を頂戴する筋道を示してくださっています。
まとめ
私たち人間が自由自在を頂戴できるもとは、自らの心であると仰せられます。
神様は、自由自在を子供である人間に与えてやりたいと種々とご苦労くだされています。
この自由自在とはいかなるものであるのか。
『正文遺韻』によると、それは、思い通りにこの人生が運ばれていくことで、「かしもの、かりものの理を聞き分けていくなかに、だん/\と思うことが叶うようになる」とお教えいただきます。
つまり、このお道の理を学び、そして身に現していくところに、思うことが叶うというご守護を頂戴することができると仰せられるのです。
そして、自由自在を頂戴できる心の治め方として「誠」ということが示されるのです。
次回から「おかきさげ」の核心となる「誠」について学ばせていただきます。
どうぞご覧ください。