みなさん。こんにちは。
すがけんの天理教のみかたをご覧いただき誠にありがとうございます。
今回もようぼくの指針となる「おかきさげ」の理解を深めていきたいと思います。
これまでの部分は以下をご参照ください。
目次
おかきさげ本文
今回、取り上げるのは以下の部分です。
「心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。」
「仮席の栞」3頁
ここは「かしもの・かりものの理」に続く「心の理」について説かれている重要な部分です。
今回は「心の理」に焦点をあてて学ばせていただきます。
心は自分のもの
まず、心について「おさしづ」に、
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。
「おさしづ」明治二十二年二月十四日
と、人間の身体は神様からのかりもので、心だけが自分のものであるとお教えいただきます。
身体は今世で使い切らせていただくものですが、心は来世まで持ち越して使うことになるものです。※それを魂と考えることはできますが、、、ここでは心としておきます。
心一つが我が理
さらに、他の「おさしづ」でも、
「人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。」
「おさしづ」明治二十二年六月一日
と、先ほどと同様、身体は神様からのかりものであることを確認したうえで、心一つが我が理であるとお教えいただきます。
ん~「心一つが我が理」って?
ここで「心一つが我が理」について考えてみたいと思います。
身体をお借りしているから心が使える
人間は身体をお借りしているから、心を使えるわけです。
身体が無ければ心を使うことはできません。
心は身体の影響をうける
日頃は当たり前のように身体を動かすことができています。
しかし、病気やケガなどによって健康を崩し、畳一枚が自分の住む世界になったとき、健康なときと同様に、その状況を喜ぶことができるでしょうか。
自分のものとしてお与えくだされている心ですが、目の前の現実によって、自分の思い通りに使うことができないことが度々あるのです。
この世界に生まれてきたお互いは、みんな幸せになりたいと考えています。不幸せになりたいと願い生きている人はおそらくいません。
それにも関わらず、自分の人生に嘆き、悲しみ、怒り、憤り、といった、避けたい感情を使う人が多いのです。
体験するすべてのことは自分のこれまでの心の現れ
できるでけ避けたい感情は、周囲の状況によって生み出されているものが大半です。
ですが、目の前に現れてくる現実は、自らのこれまで使ってきた心遣いがもとになっていると、神様は仰せられるのです。
だから
神様の思召に沿わない心
↓
自らにとって不都合な現実
↓
神様の思召に沿わない心
↓
自らにとって不都合な現実
このような悪循環から抜け出せなくなってしまうのです。
この悪循環を変えていく方法は、
現実を見つめる自らの心を変えることなのです。
つまり、
神様の思召に沿わない心
↓
自らにとって不都合な現実
↓
神様の思召に沿う心
↓
自らが思う通りの現実
心を変えると悪循環であった流れが好循環へと転換していくのです。
簡単に言えばそういうことです。
「心一つが我が理」と仰せられるのは、そういう意味とお考えいただけたら理解しやすいかと思います。
各々の心の理
神様は人間が自由に心を使えるようにご創造してくださいました。
ですから、どのように使うのかは人間にある程度まかされているようです。
基本的に、心は自由に使って良いものです。
しかしながら、陽気ぐらしから外れる自分勝手な使い方をしていますと、神様より病気やケガ、困った事情などのお手入れをいただき、生き方の修正を神様は迫られるのです。
人間は、にちにちの心遣いを積み重ねて心の理をつくります。
人それぞれで日々に使う心は違いますから、各自異なる心の理をもっているのです。
つまり、目には見えない心の動きが、目の見えないところで積もり重なり、目に見える世界や、目には見えない心の世界にも影響を与えていくのです。
持てる者の使い方によって値打ちが変わる
もう少し柔らかく例えるならば、、、、
茶碗を持っていたとしましょう。
大切に使っていれば保存価値が高まり、値打ちをあげることになるかもしれません。
反対に、粗末に扱って傷をつけてしまうと、値打ちは落ちてしまいます。※基本的には、、、
人間の心の理も同じところがあり、日々、神様の思召しに沿って使わせていただけば、良いことづくめの陽気ぐらしとなるのです。
反対に日々我が身勝手の心で過ごしていれば、困ったことみせていただくことになるのです。
にちにちの心の理
心の理はにちにち使う心遣いによってできてくるものです。
にちにち使っている心を神様はお受け取りになって心の理になるのです。
それはどんなことでも、日々に自分の心や行為は、神様は見抜き見通しです。
神様は見抜き見通し
「おふでさき」に、
このよふをはじめだしたる月日なら
どんな事でもしらぬ事なし
『おふでさき』8号11このせかい一れつみゑる月日なら
とこの事でもしらぬ事なし
『おふでさき』8号51
と記されています。
人が見ていないとしても、神様は見抜き見通しであります。
そこで「おかきさげ」では「どういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも」と、重ねて仰せられているのです。
まとめ
「おさしづ」に
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。
「おさしづ」明治二十二年二月十四日
自由にお連れ通り頂けるもとは、たった一つ。
自らの心によって決まると仰せられます。さらに、
「神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。」
「おさしづ」明治三十一年十月二日
自らの心をしっかり神の思いにそって定めれば、その心にのって神は自由自在に働くと仰せられるのです。
さぁ、ようぼくとして、
神の子供として、
今日一日あなたはどのような心を使っていきますか?
次回からその内容について入っていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。