「かしもの・かりものの理」三つの展開 ~おかきさげを読む~

みなさん。こんにちは。
すがけんの天理教のみかたをご覧いただきありがとうございます。

今回もようぼくの指針となる「おかきさげ」の理解を深めていきたいと思います。

おかきさげ理解の目的について

再三「おかきさげ」が続いているので、少し飽きている人もいるかもしれません。
そこで、なぜ「おかきさげ」を理解しようと試みるのかについて書いておきたいと思います。

まず。私には一つのテーマがあります。
それは、
ようぼくとは、おさづけの理を頂戴すれば終わりではないということです。
それは、神様の思召に沿って「神の用をする人」になって、初めてようぼくと言えるのではないかと考えているからです。

では、神様の用をするにはどうすれば良いのか?
それは神様の思召しを知ることからはじまります。

だから「おかきさげ」を学ぼうと考えるのです。

「おかきさげ」はようぼく一人ひとりに渡される神様のお言葉をまとめたものです。
ですから、この「おかきさげ」を理解することを通して、ようぼくとしての歩みを確認していこうじゃないか!と考えるのです。

まぁそういう目論見で進めているということを御理解いただきたいと思います。
ようぼくの皆さん、ならびに別席運び中の方、どうぞ最後まで気長にお付き合いください。

 

おかきさげ本文

今回、取り上げるのは以下の部分です。

それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。

「仮席の栞」3頁

この部分を一言で言うなら、

「身体は神様からお借りしています」
「神様が受け取るのは心」
ということです。

今回はこの「かしもの・かりものの理」について、3つのポイントを挙げて理解を深めたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

誰もが知っている重要な教え

皆さんも教会で、一度は「かしもの」「かりもの」と耳にしたことがあるかと思います。
ですから、身体は神様からの借り物であるということは、ようぼくが知っていることはもちろん、小さな子供も含め、多くの方が知っている教えだと思います。

「おふでさき」に

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん 

「おふでさき」(3-137)

と仰せられるように、「かしもの・かりものの理」が分からなければ、何もわからないと仰せられます。また教えの台とも聞かせていただきます。

つまり「かしもの・かりものの理」は、天理教の根幹をなす重要な教えと言われるのです。

そんな誰もが知っていて、とても重要な教え、それが「かしもの・かりものの理」です。

 

身体を通して理解していることが大きい

なぜ、重要な教えである「かしもの・かりものの理」を知っている人が多いのかというと、それは病気になったときに、身体の自由がきかないことを通して、体験的に身体が神様からの借り物であるということを得心しやすいからだと思います。

多くの方は病気を通して、身体が神様からお借りしているものであるということを知るのです。

しかしながら、病気という経験によって、身体が神様からの借り物であることがわかっても、その体験を得ただけでは再びつらい思いをしてしまうことになるのです。

「おさしづ」に

「身の内かりもの/\と聞いた時だけ。一日経ち十日経ち言うて居る間に、二十日経ち遂には忘れる。」

「おさしづ」明治二十四年十一月十五日 夜一時

別の「おさしづ」では、

「かりもの/\と言うては居れど、かりものの理が分からん。」

「おさしづ」明治二十三年六月十七日 午前三時半

と、かりものの理は知っているだけでは不十分であり、一度、心からわかるという体験をしても忘れやすいことが指摘されています。

「身体は神様からの借り物である」という知識をもっているだけでなく、その先にある本当の意味で「かしもの・かりものの理」がわかるということが大切なのです。

つまり神様の思召にそって生きるという姿になってこなければ「かしもの・かりものの理」がわかったとは言えないということです。

そこで「かしもの・かりものの理」がわかるということを、3つのポイントに分けて考えたいと思います。

①神様に感謝

人間は神様によって生かされて生きています。
誰もが吸うことができる空気。
そして空気を吸うことができるように、身体が働いているのも神様のお働きによるものです。

何をさせていただくのも、神様のお働きがあってできることですから、常に神様にお礼を申して生きるということが大切です。

しかし、一般的には病気や困ったことが起こったときに、神様に対して病気が治ることや事情が治まることを願いがちです。※もちろんお願いをしても良いのですが、それはまたの機会に。

人間は日々に気づかないうちに、自分の力で生きていると勘違いして、かりものの理を忘れ、神様の思いから離れた暮らしをしてしまいがちなのです。

そうした私たちが危ない道に陥らないように、神様は病気や事情によって知らせてくださるのです。

ですから、この神様の守護を忘れないように、朝づとめ、夕づとめをさせていただくことが大切といえるでしょう。


朝づとめでは神様に日々の守護に対する感謝をお供えし、夕づとめでは一日のご守護にお礼を申し上げます。

当たり前といえば当たり前ですが、心をこめて朝と夕に神様に向き合うことで、よりかりものの理を心に治めることができるのです。

 

②成ってくることを「たんのう」しよう。

日々に起こることはすべて神様のご守護であります。
代り映えしない日常であろうとも、よく見れば様々なことが起こります。

私たちは自分にとって不都合なことが起こると、外的な要因にその原因を求めようとしがちです。

例えば、
暑い日や寒い日。
暑い日に脱水症状で倒れる人もいれば、寒い日に高熱の風邪をひく人もいるでしょう。

暑さから脱水症状になった。

寒いから風邪をひいた。

このように外的な一面(暑さや寒さ)を症状の原因と言うこともできますが、全ての人が同じ環境下で同じ症状になるとはかぎりません。

人間は困ったことが起こると、外的な要因にその原因をなすりつけ、自分のことは棚に上げてしまいがちです。

天理教では、これらの出来事は神様からお与えいただくものとお教えいただきます。

しかし、その根本の原因は「自らの心」であると教えられます。

これまでに使った心遣いが現在の自分を作っているのです。

これが「心一つが我がの理」という教えなのです。

そこで私達ができることは、すべては陽気ぐらしへ向かうための神様のお導きであると心に治めることです。

そうすれば心から「たんのう」することができるとお教えいただきます。

「たんのう」は漢字で書くと「足納」になります。
つまり、満足するということを納めるということです。

自分にとって不都合な出来事は、陽気ぐらしへ導こうとする神様からのお導きですから、成ってくるのが天の理と喜んで受けとめることが大切なのです
そうすることによって、この喜んだ理が、未来の人生において喜びとなって返ってくるのです。

③借りた理をかえす道

私たちは神様から身体をお借りして過ごしています。
借りているわけですから、いつかは神様に返さなければなりません。

この場合、借りている身体を返すということは人間にとって「死」を意味します。
天理教では「死」は出直しといい、また新たな身体を借りてこの世界にかえってくると教えられます。

で、そこで考えたいことは、なぜ神様は私達人間に身体を貸しておられるのかということです。つまり何のために身体を貸しているのかということです。

これは一言でいえば、神様は人間に陽気ぐらしをさしてやりたいという目的から身体を貸しておられるのです。
ですから、陽気ぐらしをするということが、この身体を借りている恩を返す道ということになるのです。

 

まとめ

かしもの・かりものの理という教えは、ただ単に神様から身体を貸していただいているということにとどまらず。天理教の信仰の土台となる教えなのです。

私が考える「かしもの・かりものの理」が分かったという状態は、三つの方向性を意識して生きることだと思います。

その三つの方向性とは、
「感謝」「たんのう」「陽気ぐらし」です。

私は「かしもの・かりものの理」という教えから、三つの道が示されると考えています。これらの道を実行することによって、「かしもの・かりものの理」がさらに心に治まることになるのです。

これらの道はまた機会に詳しく書きたいと思いますが、これらの道が出発する土台となる教えが「かしもの・かりものの理」なのです。

今日はここまで、最後までお読みいただきありがとうございました。