『信者の栞』について

『信者の栞』について

出版の歴史

『信者の栞』が出版されたのは今からさかのぼること72年前。昭和21年(1946)4月18日に発行されました。編集は天理教教義及史料集成部。教祖60年祭がつとめられ、そしてのちにすぐに行われた教祖御誕生祭に発行されました。

前年は日本が敗戦し第二次世界大戦が終結した年です。
それまで昭和12年から天理教は革新という当時の政府の意向によって、おつとめがお教えいただいたとおりに勤めることができず、いわいる泥海古記に関連する教理は説けない時代が続いていました

その長い革新の時代を経て、いち早く全教の教えをもとめる人に「みかぐらうた」を届けたい、その思いから刊行されたのが『信者の栞』なのです。

ですから、この冊子ではお教え通りの「みかぐらうた」が載せられています。

 

目次について

初版の目次

その当時の『信者の栞』の目次は次のようになっています。

信者の栞目次
一 みかぐらうた
一 神様の御守護
一 かしものかりもの
一 八つのほこり
一 誠眞實
附 別席場案内畧圖

となっています。

現行は以下の通り

現行の目次

信者の栞目次
一 みかぐらうた
一 親神様の御守護
一 かしもの・かりもの
一 八つのほこり
一 誠真実
附 別席の誓いの言葉

タイトルの変更もありますが、基本的に内容には変更はありません。
唯一、内容が変わった点は昭和23年の初試験から誓いの言葉に変更されたことをうけて附の「別席場案内畧圖」が「別席の誓いの言葉」に変更されていることが挙げられます。

内容について

「親神様の御守護」「かしもの・かりもの」「八つのほこり」「誠真実」の内容は、諸井政一『正文遺韻』の「教の理」として収録されているものが主な内容になっています。

この「教の理」に該当する部分は、別席の初試験の内容として「十全の守護」「八つのほこり」の説き分けとなっていました。

この部分は、諸井政一が21歳のときに遠州に住む妹のろくという人にお話の稽古として、手紙にして送られた内容で、それが「教の理」の内容となっています。

諸井政一は先人の高弟たちに話を聞ける環境にあった

諸井政一は明治21年からおやしきで青年勤めをしていますから、直接には教祖にお会いになってはいません。しかし、教祖の身近で教えを聞いた人がおやしきに沢山出入りされていたので、教祖のお話を聞いた先人の言葉に触れる機会は多かったものと思われます。
特に辻忠作先生という先人から教えを取り次いでいただく機会が多かったのではないかと言われています。
ですから、「教の理」は、妹に宛てた単なる手紙という内容ではなく、これは神様のお話であるということができるのではないかと思います。

 

『信者の栞』本文「みかぐらうた」「別席の誓いの言葉」抜き

 

親神様の御守護

私達の親神様は、天理王命様と申し上げます。もんかたもないところから人間世界をおつくり下された元の神様実の神様です。親神様の御守護の御理に、それ/\゛神名をおつけ下されてあります。

くにとこたちのみこと
天では「月様」とお現れ下され、人間身の内「眼うるおい」、世界では「水」の守護の理。

をもたりのみこと
天では「日様」とお現れ下され、人間身の内「温み」、世界では「火」の守護の理。

くにさづちのみこと
人間身の内「女一の道具、皮つなぎ」、世界では「金銭。縁談、よろずつなぎ」の守護の理。

月よみのみこと
人間身の内「男一の道具、骨つっぱり」、世界では「立毛草木、よろずつっぱり、地上より自ずから立っているもの」の守護の理。

くもよみのみこと
人間身の内「飲み食い出入り」、世界では「水気上げ下げ」の守護の理。

かしこねのみこと
人間身の内「息吹き分け」、世界では「風一切」の守護の理。

たいしよく天のみこと
出産の時、「親と子の胎縁をお切り下され」、出直しの時「息を引きとる世話」、世界では「種物の芽はらを初めその他切ること一切」の守護の理。

をふとのべのみこと
出産の時「親の胎内より子を引出す世話」、世界では「立毛の引出しをはじめ、その他引出し一切」の守護の理。

そこで、人間生まれる時「たいしよく天のみこと」は親子の胎縁を切る御守護、「をふとのべのみこと」は引出しの御守護、生まれた後は、「くにさづちのみこと」は元々通りあとじまいの御守護。この御守護の理により子を生まして頂く事が出来るので御座います。

いざなぎのみこと
「男雛形、種」の理。

いざなみのみこと
「女雛形、苗代」の理。

このように親神、天理王命様が世界人間を始め、立毛草木、その他よろず一切を御創造め下され、又日夜おやすみなく御守護下されますので自由自在が叶うのでありまして、天理王命様こそ元の神、実の神にてあらせられるこの世人間の親神様で御座います。

 

かしもの・かりもの

 親神様の御守護によって人間は生き、はたらき、つとめさして頂けるのでございます。そこで身の内は、神のかしもの、めい/\はかりもの、と仰せられます。又この世元初まりの時も、この十全の御守護によりて、でけたち来ました故に、その証拠に、人間には、手足とも十本の指をつけておいたとの仰せで御座います。

 おやゆびは月日様のごとく、あと八本は、八柱の道具衆のごとくで、親指があるので、あとの指が役に立つごとく、月日様が、八柱の道具衆をおつかいになりまして、この世をはじめ下され、いまにおいても御守護をして下さるのやとお聞かせ下されています。

 さすれば親神天理王命様と申しますのは、我々の親神様で、我々の身の内も御支配下さること故、世界の物、皆親神様の御支配でございまして、人間の力で出来るものは一つもございません。従って人間のものやという物は一つもございません。皆、親神様のものでございます。

 それをめい/\に、身上をはじめとして、いろ/\のものを心だけに貸し与えてもろうて、日々通るのでございます。その貸し与えて頂く理は何処にあるかと申しますれば、心にあるのでございます。そこで、心一つが我がの理、と申します。

 それば身上は、親神様が宜しきように御守護下されますから、親神様におまかせ申し、日々もたれて通ればよろしゅうございますが、心はめい/\のものであります故、お話を聞いては改め、聞いては改め、日々日々とだん/\改めみがき上げて、通らして頂かねばなりません。

 心さえ、すみやかそうじして、みがき上げ、あしき心を、さら/\持ちませぬようになりましたら、病みわずらいという事もなく、火難、水難、風難も、皆のがれさせて頂いて、結構に通らして頂けるのでございます。病まず、弱らず、百十五歳定命とさだめをつけて、生き通りの道を、つけようとの親神様の仰せでございます。

 親神様の御守護で、人間身の内は、自由自在がかないます。又食い物、着物、住む家も、皆親神様の御守護で出来るのであります。そしてめいめいの心の理に、与えて下さるのであります。

 

八つのほこり

 八つのほこりと聞かして頂きまするは、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つでございまして、この八つのほこりの心というは、日々に、知らず/\の間に使うものでございまして、知らず/\の間に積もり重なり易きもの故に、ほこりとお聞かせ下されるので御座います。

 そこでこのをしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つは理のかどめを仰せられましたのであります故に、をしいと申しても、幾重にも、ほこりの道はございます。ほしいと申してもその通り、その外皆同様で、ほこりの心や、ほこりの行いは、幾千筋あるともわかりません。

 さればその幾千筋とも限られぬ、ほこりの心、行いを一々申し述べるはなか/\出来得る事でありませんが、ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。

をしいというは、おさめねばならぬものを、惜しいと思い、かやさねばならぬものを惜しいと思い、人に貸すものを惜しいと思い、ぎりをするのを惜しいと思い、人に分配するのを惜しいと思い、なんじゅうにほどこすものを惜しいと思い、人の為にひまを費やすのを惜しいと思い、すべて出すべきものを惜しいと思うは申すまでもなく、人の助かること、人の為になることに費やすものごとを惜しいと思うは、ほこりでございます。又身惜しみという、横着するのも、をしいのほこり。

ほしいというは、分限にすぎたるものをほしいと思い、値を出さずにほしいと思い、人の物を見てほしいと思い、すべて己が身分を思わず、足納をせずして、ほしい/\という心がほこりであります。

にくいというは、われの気にのらん、又は虫がすかんとて、罪もなきものをにくいと思い、そそうをしたり、あやまちがあったからとて、にくいと思い、われに無礼をしたとてにくいと思い、すべて、自分の気ままの心、邪けんの心から、人をにくいと思うが、ほこり。

かわいというは、可愛という愛情のない者はないが、その愛情に引かされたり、おぼれたりする。愛着心と、今一つ、誰彼のへだてして、その者に限り、別段に可愛いという偏愛心とが、ほこり。

うらみというは、己の思わくを、邪魔せられたとてうらみ、人を不親切だというてうらみ、又、人の親切もかえってあだにとってうらみ、人のそそうも、意地からしたように思うてうらみ、すべて、己のあしきを省みず、人をうらむは勿論、すべては因縁の理からなるという理を悟らずに、只人をあしく思うてうらむがほこり。

はらだちというは、人が自分の気に入らぬ事をいったとてはらたち、まちがった事したとて、はら立ち、自分がおもしろくない為に、さもなきことに腹立ち、すべて、広く大きい心を持たず、かんにん、辛抱をせずして、気短な心から、はらたてるがほこり。

よくというは、人並よりは、よけい己が身につけたいという心、理にかなわんでも、人が許さんでも、取得る限りはとり込みたいという心。一つかみに無理なもうけ、不義なもうけをしたいという心、あるが上にも何ぼでも、わがものとしておきたい心、すべて、一般によくの深い人やと言われるような心と、ごうき、ごうよくというようなよくがほこり。

こうまんというは、知らぬことも知った顔で通りたい。人よりもえらい顔して通りたい。威張って通りたい。自分の言いじょうは、是が非でも通したい。自分の非は理にして通りたい。人のいい状はなるべくうちけしたい、さからいたいというような心。すべて、一般からあの人はえらそうにする人やとか、あの人は我が強い人やとか、言われるような、高ぶる心と、強情とは、こうまんのほこりでございます。

このような、いろ/\様々の心のにごり、心得違いが、日々身の行いにあらわれていきますから、結構な楽しい世界が、ねたみ合いや、そねみ合い、けんかや、口論、罪つくり、おもしろくない世となるのでございます。又その心得違いが、つもり重なり、めい/\に天の理に迫って、身上のわずらいや、うれい、さいなんとなって、苦しまにゃならんので御座います。

 依ってお互いに、この御道の理を聞かして頂いて、信心さして頂く上は、前申し上げますところの、すべての心得違いを改め、心のにごりを澄まして終い、あざやか、誠の心を、日々に働かしていくならば、おいおいと、誠の理が積もり重なれば、天の理として、難儀、不自由は出来やせん。やもうと言うても、やまれやせんと、聞かせられますによって、なんでも、誠一つを日々に行わして頂かにゃなりません。

 

誠真実

 誠真実というは、たヾ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救るように、心を働かしていかねばなりません。そこで八つのほこりも、わが心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさせぬように、せにゃなりません。まず己がほしいものならば、人もほしいにちがいない。人にほしいという、ほこりをつけさせまいと思えば、わがものもわけさして頂くようにし、一つのものは半分わけても、ほしいのほこりを、つけさせぬようにするのが、真実、誠のはたらきです。

 われが見て、をしいと思われるようなものならば、人もをしいに違いないによって、忘れたものも速やかにかえさして頂き、落したるものも返さして頂き、また、天よりお与え下されて、天の御守護で出来たものなら、たとえ一寸のきれ、一粒の穀物でも、すたらんように心がけ、すべて、物が無駄にならぬよう、粗りゃくにならぬよう、大切にして、そうして一方、一列兄弟のなんじゅうを救う心をはたらかし、わが身かわい、わが子可愛ければ、人の身をいたわり、人の子をかわいがる心をもち、罪のにくむべきを知るならば、罪をおかさせぬよう、己も罪をおかさぬように、心をはたらかし、人の過ちも、わが身にかついで通る心になり、うらみがほこりと知った上は、人にうらまれるような行いをせんように、はらだちがほこりなれば、人にはら立たせるような言葉をつかわんよう、通常よくのないものはございませぬ故、よくのほこりをつけんよう、色欲や、ごうよくの間違いに落ち入らぬように、人の世話もさして頂く、こうまんの心ではなくとも、人にはずかしめられたり、ふみつけられたりして、何とも思わぬものはありますまい。されば人に恥かかさんよう、人と人との仲もとりつくろい、人をたてて、何事も人の心に満足あたえるよう、日々に互い立て合い、扶け合いという心を働かしていくように、お願いします。