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もともとは教祖のをびやためしから
をびや許しが渡されるようになる13年前の天保12年(1841)、教祖44才のとき妊娠7カ月目の夜に流産されます。
その流産のあとに頭痛を催しますが、夜が明けてから、汚れた布類をご自分で三度水で洗い、湯で一度洗い、そして三~四本干されると、頭痛はすっきりと治まったと伝えられます。
このできごとは、一心に神様にもたれていれば、命の危険もある流産にさいしても身の危険はなく、なんの心配もいらないことを、教祖自らの体をもって教えられたといわれています。
これを「をびやためし」と呼んでいます。
をびや許しのはじまり~おはる様~
「をびや許し」は嘉永七年(1855)教祖の三女おはる様から始まります。
『稿本天理教教祖傳』には以下のように記されています。
「嘉永七年をびや許しの始め」
嘉永七年、教祖五十七歳の時、おはるが、初産のためお屋敷へ帰って居た。その時、教祖は、「何でも彼でも、内からためしして見せるで。」と、仰せられて、腹に息を三度かけ、同じく三度撫でて置かれた。これがをびや許しの始まりである。
その年十一月五日出産の当日(註三)、大地震があって、産屋の後の壁が一坪余りも落ち掛ったが、おはるは、心も安く、いとも楽々と男の児を産んだ。人々は、をびや許しを頂いて居れば、一寸も心配はない。成程有難い事である。と、納得した。時に、おはる二十四歳であった。生れた児は、長男亀蔵である。
註三 嘉永七年十一月五日は、西暦千八百五十四年十二月二十四日にあたる。尚、この年十一月二十七日(一八五五・一・一五)を以て、安政元年と改元される。
『稿本天理教教祖伝』36頁
「をびや許し」は人間をはじめかけた元のぢばより、存命の教祖を通して出される安産の守護を保証していただくものです。
そのはじめは、嘉永7年(1854)教祖57才、三女のおはる様(梶本)が初産したときから始まります。
この時、教祖はおはる様のお腹に三度息をかけ、三度撫でてくだされたと伝えられます。
出産時、安政の大地震が起きて、部屋の壁が二畳分も崩れ落ちるほどであったが、安産することができたのです。
これが「をびや許し」のはじめとお教えいただきます。
清水ゆきさんのケース
「その翌日、お屋敷へ来た、村人の清水惣助の妻ゆきは、おはるが元気に立ち働いて居るのを見て、不思議な守護に感じ入り、私もお産の時に、お願いすれば、このように御守護を頂けましようか。と、伺うた処、教祖は、「同じ事や。」と、仰せられた。
やがて、ゆきは妊娠して、をびや許しを願い出た。教祖は、おはるになさったと同じように、三度息をかけ三度腹を撫でて、「人間思案は一切要らぬ。親神様に凭れ安心して産ませて頂くよう。」と、諭された。ゆきは、をびや許しを頂いたものゝ、教祖のお言葉に十分凭れ切れず、毒忌み、凭れ物など昔からの習慣に従うと、産後の熱で三十日程臥せって了った。そこで、教祖に伺うて貰うと、「疑いの心があったからや。」と、仰せられた。ゆきは、このお言葉を聞いた途端、成程、と、深く感銘して、心の底から懺悔した。
教祖は、その生れ児を引き取って世話なされた。ゆきは程なく全快した。
翌年、妊娠した時、ゆきは、今度は決して疑いませぬ。と、堅く誓って、再びをびや許しを頂いた。この度は、教祖の教をよく守り、たゞ一条に親神に凭れて居た処、不思議な程軽く産ませて頂き、産後の肥立も亦頗る順調であった。前からの成行きを知って居た村人達の間にこの話が伝わり、噂は近在へと弘まって、人々は、まだ親神のやしろとは知らないながらも、教祖は常人ではないと、漸く気付き始めた。
『稿本天理教教祖伝』36~38頁
安産の不思議な御守護を頂戴したおはる様。
その姿を見た近所に住む清水ゆきさんがたいへん感じ入り、教祖に「をびや許し」を願いに出られます。
そして教祖にご了解をいただき、をびや許しを受けられます。
その時「人間思案は一切要らぬ。親神様に凭れ安心して産ませて頂くよう」と諭されます。
しかし、ゆきさんは当時の風習でもあった毒忌み、凭れ物に従い、産後、熱を出して寝込んでしまったのです。
そのことについて、教祖に伺うと「疑いの心があったからや」と仰せになられます。
そして、神様の教え通りにすれば、速やかに安産さすとおさとしになられました。
そして翌年、ゆきさんは教祖の教えをよく守って「をびや許し」を頂くと、不思議なほど安産させていただくことになったのです。
これが「をびや許し」のはじまりであります。
でも、現在の「をびや許し」の形とは違います。
「をびや許し」はどのような変遷で現在の姿になってきたのでしょうか。
をびや許しの変遷
ここで「をびや許し」の変遷を整理しておきたいと思います。
三度の息と三度撫でる
「をびや許し」の初めは、教祖が妊婦に三度息を吹きかけて三度撫でておられました。
ハッタイ粉を渡される
後に、をびや許しはハッタイ粉を渡されるようになります。
この御供は、元治元年(1864)の飯降伊蔵妻さとが頂戴したという「散薬」がハッタイ粉(こがし)であったと言われています。(「じきもつの御供」であったなどの諸説あります…)
麦・米、特に大麦の新穀を煎いってひいた粉。はったい粉。麦こがし。香煎こうせん。
『大辞林』より
金平糖の御供
その後、明治11年(1878)頃から金平糖(こんぺいとう)を渡されるようになります。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「六〇 金米糖の御供」では、
教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで。」と、お説き聞かせ下された。〈中略〉
『稿本天理教教祖傳逸話篇』「六〇 金平糖の御供」106頁
※下線は筆者がひいたもの
とあります。
また、「をびや許し」という逸話では、
明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう。」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、「鋏を出しておくれ。」と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで。」と、仰せになり、残った袋の金米糖を、「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで。」と、仰せられて、お下げ下された。
『稿本天理教教祖傳逸話篇』「一五一 をびや許し」252~253頁
※下線は筆者がひいたもの
金平糖の御供が渡されていたことが伺えます。
なぜ砂糖菓子のなかでも金平糖をお渡しになられていたのかについては、『天理教髙安大教会史』によると
「この金平糖には沢山な角があるが、舌と言ふ柔らかな優しいもので撫でると、自然と角がとれるのである」
『天理教髙安大教会史』
と、教祖がお諭になられていたと言われます。
金平糖は角をとると丸くなります。
温かい口の中で、柔らかい舌で優しくなでますと角がとれるのです。
人に接する際、柔らかい優しい温かい心で接すると角のある心を丸くしていただけると、お教えいただいているように思います。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「三四 月日許した」では、
明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。
「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。
そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで。」と。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「三四 月日許した」
※下線は筆者がひいたもの
をびやの御供については、金平糖をお渡しになられていた時代ではありますが、洗米を渡されていた史実も少なからず見うけられます。
をびやつとめがつとめられる
明治20年からをびやづとめで供えられた御供を渡されるようになります。
教祖が現身(うつしみ)を隠されてのち、「おさしづ」によって、
「第一をびやたすけ、さあ三日目三粒を三つ、三三九つを百層倍。これをかんろうだいへ供え、本づとめをして、元のぢばなる事を伝え、をびや許しを出す。」
「おさしづ」明治二十年二月二十五日(陰暦二月三日)午後七時 御諭
「をびやづとめ」で供えた御供を、「をびやの御供」として出されることになります。
明治37年(1904)から洗米になる
教祖が現身を隠されてのちも、ふしぎなたすけが続出するにつき、天理教に対する反対攻撃が厳しくなっていきます。
明治34年(1901)には宗教局の廃止勧告を受けるにいたり、明治35年(1902)7月に「おさしづ」でお伺いを立てられますが、お許しはでず。
再度、37年(1904)3月29日金平糖を洗米に改めるにつき伺い、協議を重ねた結果4月3日に「おさしづ」によってお許しをいただくのです。
まとめ
をびや許しについて、二代真柱様は
「特にここで何を教えていただいておるかということは、無条件で絶対に親神にもたれよということであります」
『第十六回教義講習会第一次講習録抜粋』164頁
と、をびや許しにおいて大切なことは、神様を疑わないということと説明されます。
清水ゆきさんの「をびや許し」においても同様、その他の逸話においても「神を疑わない」ということ、つまり神様を信じなさいということが強調されるのです。
その根本は、おぢばは人間の元の親里ということを信じることであり、御存命の教祖を信じ、その教祖より「をびや許し」をいただくということが、なによりの安産の守りといえるでしょう。
をびやの御供を頂戴する際は、教祖殿で教祖と対面し、親の息をかけていただきましょう。
今日も最後までお呼びいただきありがとうございました。