誠について ~おかきさげを読む~

今回は「おかきさげ」を読む第6弾‼
これまでの部分は以下をご参照ください。

自由自在について ~おかきさげを読む~

2018年6月25日

心の理について ~おかきさげを読む~

2018年6月18日

「かしもの・かりものの理」三つの展開 ~おかきさげを読む~

2018年6月11日

言わん言えんの理を聞き分けるについて ~おかきさげを読む~

2018年6月4日

ようぼくは「人をたすける心」を忘れないようにしよう。~おかきさげを読む~

2018年5月28日

おかきさげ理解

こうやってならべてみると長いですね。
しかし、「おかきさげ」は天理教の教えのなかでも基軸となる大事な教えですから、じっくりと進めさせていただきたいと思います。

では、今回取り上げる部分は、

「日々という常という、日々常に誠一つという。」

「おかきさげ」

という部分です。少し短いですが「誠」ということについて、重点的に進めていきたいと思います。

前回も触れましたが、神様は「日々に常に誠の心を使うこと」が肝心であると仰せられます。

そもそも、私たちが日々使っているすべての心を神様はお受け取りになられています。
その心に合わせて、日々いろいろなことをお見せいただくのですが、その中でも、自由自在の御守護(たすけ)を頂くには、誠が大切であると仰せられるのです。

「おさしづ」にみる「自由自在」と「誠」

「おさしづ」に

「自由自在は誠の心にある。」

「おさしづ」「明治二十一年一月八日午前八時三十分」

「自由自在は心にある。誠一つより受け取る処無い。誠一つ積み重ね。」

「明治二十一年」

「自由は誠一つという。誠一つ無いから何よの処も分からん。」

「おさしづ」明治二十三年四月十九日(陰暦三月一日)午後九時三十分

と、誠で通るところに自由自在の御守護を頂くことができると仰せられ、誠でなければ受け取るところがなく、さらには何も分からないとまで仰せられています。

これらの「おさしづ」によって、ご守護を頂くうえに「誠」がいかに重要であるかが分かります。

 

誠とは人をたすけること

「おふでさき」においても、誠を受け取り守護することが記されています。

「おふでさき」にみる「誠」

どのようなたすけするのもしんちつの
をやがいるからみなひきうける

この事をこれをまことにをもうなら
まことしんぢつ心したいや

「おふでさき」(七-101~102)

この「おふでさき」では、どのようなたすけをするのも、真実の神様がいるからみな引き受けると仰せられます。そして、このことについて真実と思うならば、人間の誠真実の心を神が受け取りたすけをすると仰せられます。

同じように、

しんちつに心にまことあるならば
どんなたすけもちがう事なし

「おふでさき」(十三-71)

心に誠があるならば、どんなたすけも引き受けることを約束されています。

では、具体的に「誠」とはいかなることを意味しているのでしょうか。

 

誠の心とはたすける心

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる

口さきのついしよはかりハいらんもの 
しんの心にまことあるなら

「おふでさき」(三-38~39)

本当に人をたすける心であるならば、何を言わずとも神はその心を受け取ると仰せられます。さらに続いて、口先の追従(ついしょう)などは不要で、心に誠があるならば神は受け取ると仰せられます。

つまり

【心から人をたすける心】ならば【口で何も言わなくても良い】
【口先の追従はいらない】その代わりに【心に誠】があれば良い
と仰せられています。

整理すると

【心から人をたすける心】と【心に誠】、
【口で何も言わなくても良い】と【口先の追従はいらない】とが対応しており、誠とは人をたすける心であるということが伺えます。

さらに「誠」について理解を深めるために、先人の「誠」の理解について確認しておきたいと思います。

正文遺韻における「誠」

『改訂正文遺韻』には、

「まことゝいふは、くちと、心と、手と、この三つが、そろふて、しんのまことゝいふ。それ、いかほどくちで、誠のはなしするとても、しんにまことをさまりあれば、おこなひもそれにそふて、それ、すること、なすこと、にち/\つねに、いかなることも、みな、まことのやうにばかりなるであらう。けれども、心にまことをさまりないと、それ、どうもならん。

にち/\のすること、なすことが、くちではなしたことゝ、ちがふから、せかいから、それ、あの人はくちさきばかりうまい人や、いふことだけは、まことのやうなれども、などゝいふて、それ、はなしのりをもちひてくれぬやうになる。

そこで、くちと、心と、てと、そろふて、人々より、あゝなるほどのかたやなあ、どうもかんしんな人やなあ、たのもしい人やなあ、といはれるやらう。しんのまことで、とほらうとおもへば、そこで、一つたんなふといふりを心にをさめて、われはどうでも、人さへよくば、わしはもう、これでけつこうや、たとへ、このうへどのやうにならうとも、人さへたすかつてくれゝば、それでよい。なんでも、ひとにたすかつてもらはねば、ならんといふ、心さだめねばならん

『改訂正文遺韻』208-209頁

と、理解されていたようです。

特に注目したいのは最後の部分で、誠について、人さえ良ければ自らはこれで結構、たとえ自らがどうなろうとも、人さえ助かってくれればそれで良い。何でも人に助かってもらわねばならんという心を定めねばならん。と仰せられています。

誠とは自分と他人との隔たりがなくなり、人の苦しみを我が苦しみとし、人の喜びを我が喜びとし、人をたすける心になることとお教えいただくのです。

 

まとめ

今回は「おふでさき」や「おさしづ」、先人のお話を基に「誠」についてみつめてきました。
繰り返しになりますが、まずは「日々に常に誠の心を使うこと」が肝心であるということです。そして、誠とは「人をたすけること」ということがみえてきました。
具体的には、自分と他人との隔たりがなくなり、人の苦しみを我が苦しみとし、人の喜びを我が喜びとし、人をたすける心になることが誠であるとお教えいただくのです。

教祖は、いつも、「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ。」と、仰せになっていたと聞かせていただきます。
日々常に、人をたすけることを暮らしのなかで実行させていただきたいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。