おかきさげシリーズ第11弾
今回はお道の「互いたすけ」について
おかきさげ本文
「又一つ、これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。」
「おかきさげ」
「運ぶという」「尽すという」は、これは人のために真実を運ぶ(働く)という意味です。
にちにちに誠の心をもって、たすけ一条の道を歩ませていただくなかに、互いに助け合う世界が生まれてくると教えられるのです。
世界はたすけあいで成り立っている
この世界は、助け合いでなりたっています。
夫婦や家庭、町などの小さな繋がりから、国や世界、それを包括する宇宙という大きなものでも、それぞれに繋がりをもち、助け合いおぎない合いながら成り立っています。
例えば、私という一人の人間がこの世界に産まれるということさえも、父親と母親が力を出し合わなければ産まれてはきていないのです。
この世界は、この助け合いでなりたっていると言っても過言ではありません。
しかし、おかきさげで示される「運ぶという、尽くすという」お言葉は、一般的な意味でのギブアンドテイクと解することもできますが、それだけではないように思います。
人をたすけることに力点がある
おふでさきに
「わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる」
「おふでさき」3号47
このお歌では「人をたすけたら」「我が身がたすかる」と端的に教えられています。
これはあくまでも、自らが運ぶ尽くす(人をたすけること)という面に力点があって、尽くしていれば、必ず自分に返ってくるという世界の理法を説いていると考えられます。
「かりもの」の御恩を考える
私たちは神様から身体をお借りしてくらしています。
それを思えばすべてはお礼です。
何をしたからといって、見返りをもとめるのは欲の心となってしまいます。
「四ッ よくがあるならやめてくれ かみのうけとりでけんから」
『みかぐらうた』 九下り目四ツ
このように、欲があるなら止めてくれと神様は受け取ることができないと仰せられるのです。
何事も結果をあてにすることなく、させていただくことが大切と仰せられます。
『おふでさき』では重ねて、
「しんぢつにたすけ一ぢよの心なら なにゆハいでもしかとうけとる」
『おふでさき』(3-38)
真実に人をたすける心ならば、どんな願いも受け取ると仰せられるのです。
さらに「おさしづ」では、
「さあ/\人間の誠の心の理が人の身を救けるのやで。さあ/\人の誠の心が我が身救かるのやで。皆々めん/\もこの理を心から聞き取りて、我が身が救かるのやで。」
「明治二十一年八月九日(陰暦七月二日)親様よりおさづけを受けなさる人に、諭しある事を傍にて日々取次致し、めん/\もその理を写したき願」
つまり、
一生懸命に人だすけにつとめさせていただく。そして、結果をあてにしないで通らせていただく。
どこまでも「かしもの・かりもの」の教えに基づいた御恩報じにつとめさせていただくことが大切なのです。
この気持ちを忘れずに人に尽くす(救ける)ことが、本当に救かる信仰へと導かれるとお教えいただくのです。
今回はここまで、次回は互い扶けについてもう少し考えたいと思います。