言わん言えんの理を聞き分けるについて ~おかきさげを読む~

みなさん。こんにちは。

いつも「すがけんの天理教のみかた」をご覧いただきありがとうございます。

今回も「おかきさげ」を読み深めたいと思います。

それではまず、前回とりあげた「おかきさげ」の冒頭部分について、少しおさらいをしておきましょう。

 

「おかきさげ」の冒頭部分では、

「おさづけの理の拝戴する日に、生涯「たすけ一条」のために努めさせていただくと心を定めることで、おさづけの理を頂戴することができる」ということが記されていましたね。

詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

ようぼくは「人をたすける心」を忘れないようにしよう。~おかきさげを読む~

2018年5月28日

 

今回はその続きから、

今回の「おかきさげ」

今回、取り上げる「おかきさげ」の区分は以下の通りです。

「席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。生涯の理を諭すには、よく聞き分け。難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。」

『仮席の栞』2頁

 

「席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。」

「席に順序」

席に順序とは一言でいえば「別席」を意味します。

※別席場

ここでいう順序とは、おさづけの理を頂戴するまでの順序という意味です。

順序とは、例えば「一・二・三」というような順序、後先の間違いないようにするという意味です。

一つの理は、生涯の理を諭す。

「一つの理は、生涯の理を諭す」とは、生涯おさめるべき親神様の思召を諭すという意味です。

つまり、「別席」においては、ようぼくが生涯おさめるべき、親神様の思召を諭すと仰せられるのです。

「おかきさげ」の冒頭部分がおさづけの理を拝戴することが主題であったことを考え合わせると、おさづけの理を拝戴するまでに別席を運び、親神様の思召を心に治めるという順序が大切と仰せられているように思います。

 

「生涯の理を諭すには、よく聞き分け。」

この「生涯の理を諭す」とは別席のことを意味します。

この別席で諭されることを「よく聞き分け」よ、と仰せられます。

この聞き分けるとはどういう意味でしょうか。

 

「聞き分け」について

「聞き分ける」という言葉を理解しやすくするために、ちょっとした例話をあげたいと思います。

例話「聞き分けがいいね💛」

ここに三人の家族【お父さんとお母さんと子供(喜子ちゃん)】がいます。

「喜子ちゃん。洗い物手伝って~」っと喜子ちゃんのお母さんが言ったとします。

そこで喜子ちゃんが「は~い」と言って手伝います。

これを見た喜子ちゃんのお父さんは、「喜子は聞き分けの良い子だな~」っと思うわけです。

はい。良く分かりますね。

その反対は説明不要です。

つまり、「生涯の理を諭すには、よく聞き分け」と仰せられる「聞き分け」とは、別席で聞いたことを、心から得心して日々にあらわすように、という意味なのです。

 

「難しい事は一つも言わん。」

では、どのような内容を「聞き分ける」ように仰せられているのでしょうか。

その一つの側面として「難しい事は一つも言わん」と仰せられます。

神の子供である人間に対して、大きなご期待ともとれる一文であります。

そして、それに続いて、どうせこうせこれは言わん、これは言えん。と仰せられます。

 

「どうせこうせこれは言わん、これは言えん。」

この部分がけっこう捉えづらい部分なんですが、、、

このお言葉の意図するところを、あえて一言で言うと、人間の「主体性を尊ぶ」ということだ私は思います。

例えば、仮に

神様が人間に「こうしなさい!」と具体的な指示をしました。

指示を聞いた人間が指示どおりにできなかったとしましょう。

その場合、できなかった人間は落胆してしまう。きっと、、、と神様はお考えになられるのです。

仮に人間が指示通りできたとしても、それは義務的にこなしたということになり、できてもあたりまえというような感覚が残ることになります。

ですから、人間をおつくりになられた神様としては、子供である人間に対して「こうしてくれ」とは言えないと、仰せられるのです。

親の心とは「子供にしてやりたい」という心でいっぱいです。

反対に子供に「〇〇してくれ」と口にしてしまったら、なんだか後味が悪いと感じるのは、私だけではないでしょう。

だから、神様は「こうしてくれ」とは言えないし、言わないのです。

でも「こうしてほしい」とは思っている…

 

「言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。」

つきつめると「言わん言えんの理」とは「こうしなければならない」から「させてもらいたい」という心でつとめるということです。

この主体的な信仰に、神の理が鮮やかに見えるという姿をお与えいただけると仰せられるのです。

 

まとめ

ある「おさしづ」では、

「難しい事せいとは言わんというは諭しの台、又しなと言うても心の理を運ぶなら十分受け取る。」

(明治23年6月3日)

親としては子供に「難しいことをしなさい」とは言っていない。これは神様が諭す場合の基本であります。

反対に「しなくてもいい」と神が示していたとしても、人間が心から運ぶなら十分受け取ると仰せられるのです。

本当に神様って優しいですね。

 

また違う「おさしづ」では、

「この道というものは、どうしてくれいこうしてくれとは、一つの理始めた道じゃない。」

(明治31年10月2日)

このお道は親神様のほうから頼んでつけたのではなく、人間が慕う形で現在のお道になってきたと仰せられます。

このお道は、義理でつとめることでもなく、義務的にすることでもありません。

別席においては、生涯どのように通るかについては諭しています。
そのうえで「言わん言えん」と神様は仰せになり、心をお供えする主体的な信仰へと私たちを誘われるのです。

 

今日はここまで、最後までお読みいただきありがとうございます。