ようぼくは「人をたすける心」を忘れないようにしよう。~おかきさげを読む~

みなさん。こんにちは。

すがけんの天理教のみかたをご覧いただきましてありがとうございます。

そろそろ、新しい動きを~っと、思っている今日この頃のすがけんです。

ですが!

今回も変わらず、ここ最近続いている『仮席の栞』を基にすすめてまいります。

今回は『仮席の栞』の冒頭にある「おかきさげ」について、理解を深めて参りたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

「おかきさげ」とは

少~し「おかきさげ」についておさらいしておきましょう。

■「おかきさげ」

仮席で渡される「おかきさげ」

明治23年の「おさしづ」によって「おかきさげ」は渡されるようになりました。

「さあ/\一言々々話して、これまでの書取渡すのや。渡すのが第一やで/\。後より渡すのが第一肝心やで。さあ/\これまでの書付は、皆んな渡すのやで。さあこれから先の書付は、皆一人々々の心の理に又諭すによって、これまでの書付と、それに添えて、後で書付渡すのが第一肝心や。これだけ諭し置く。」

「おさしづ」「明治二十三年七月十五日(陰暦五月二十九日)おさづけ順序後へ御話」

簡単にまとめると、

これまで(明治23年)に諭されてきたお言葉(おさづけさしづ)を、一定の書き物として渡すようにと仰せられます。

つまり、これまで諭してきた言葉をまとめて、おさづけの理を拝戴した人に渡すことが神様の方から積極的に指示されるのです。

『仮席の栞』では「おかきさげは、よふぼくの生涯の心の定規です。」(仮席の栞より)と、「おかきさげ」は、ようぼくが生涯にわたってどのように生きるのかを定めた「心の定規」であると仰せられます。一言でいえば、私たちの道しるべとなる教えなのです。

「おかきさげ」の成立について、もう少し詳しく知りたい方は以下をご参照ください。

別席制度について ~特に仮席について~

2018.04.23

 

「おかきさげ」冒頭部分の理解

では、今回は「おかきさげ」の冒頭部分から理解を深めたいと思います。

「さあ/\だん/\の席返す/\の席をして、さあ一日の日というは生涯の心一つの理を以って一つ席とす。」

『仮席の栞』2~3頁

今回は上記の文を、さらに細かく区切って理解を深めていきたいと思います。

 

「さあ/\」について

まず「さあ/\」というフレーズですが、これは親神様よりお話しくださる際、冒頭でこれから神様の話が始まるよ~という呼びかけとして使われる言葉であります。
『おさしづ』の多くはこの「さあ/\」が使われています。

ちなみに、「/\」は繰り返しを意味します。
ですから「さあ/\」という表記の場合、「サアサア」と読みます。
もちろん、繰り返しの意味ですから「おかきさげ」のなかでも「さあ/\」だけでなく、「だん/\」や「返す/\」というように「/\」が使われている部分は、その前の言葉を繰り返すと覚えておいてください。

 

別席のこと

そして「だん/\の席返す/\の席をして」と続きます。
「だん/\の席返す/\の席」とは別席の事を仰せられています。
別席において同じお話を九回聞きます。
基本一カ月に一回、計九カ月にわたって聞かせていただくようになっています。

この別席では、心の入れ替えをすることをお教えいただきます。
※別席について詳しくは以下をご覧ください。

別席について ~別席制度からみつめる~

2018.04.16

この別席を運ぶことによって、私達は本当の意味で、神様の子供としての歩みを始めるのです。

別席について「おさしづ」では、

「長い話した処が、中に飽いて来る者が出ける。そんな席何ぼしたとてどうもならん。そこで九遍という。九遍さえ追うたらよいというだけではならん。同んなじ事九遍聞かしたら、どんな者でも覚えて了う。」

「おさしづ」「明治三十一年五月十二日 夜 昨日辻とめぎく身上願いより夜深というおさしづに付願」

 

お道においては、神様の話を何度も繰り返して聞き、心に教えを治めることに重点がおかれています

この天理教の考え方が心に治まっていないと、別席のお話は何回も同じ話を聞かされるわけですから、単につまらない時間と思ってしまう可能性が高くなってしまいます。

そうなれば、本来ある「心に治める」という意味を失ってしまうことになります。

先人のお話で

教祖のお姿がみえたとき、教祖は毎月同じように「かしものかりもの」の話をされていました。そのお話を聞いていたある人が、

「いつ参らせて頂いても、同じように身の内のお話をきかして頂きますが、もう十分わからして頂いて、人にも話もさしていただけるにならせて頂きましたから、これから他の話を聞かして頂きたい」と申されましたところ、教祖様は
「それでは借物の理は十分治まったか、借物の理が十分治まったなら、なんどきかえしても結構という理がおさまらねばならん」

『みちのとも』昭和22年9月号3頁参照

と仰せられます。

この逸話によって、お道の教えは単に知的理解をしているだけでは意味がないということがわかります。
これと同じように、別席で聞かせていただいたお話も、日々の生活のうえに活かさねばなりません。

 

さあ一日の日というは生涯の心

「一日の日」とはおさづけの理を頂戴する日のことを意味します。
「生涯の心」とはおさづけの理を頂戴した日の心を、生涯持たせていただくという意味です。

 

一つの理を以って一つ席とす。

そして、「一つの理を以って一つ席とす。」と仰せられます。

ここ語られる「一つの理」とは、誠の心を指しています。
つまり、誠の心とは「人をたすけるという心」のことであります。

ここまでのことをちょっとまとめると、、、、

ここまでの九度の別席をうけて、生涯「たすけ一条」のために努めさせていただくという心を定めてくれた。この心におさづけの理を授けようと神様は仰せられます。

 

まとめ

このように見てまいりますと、おさづけの理を拝戴するうえで、「人をたすける心」がいかに大切かがよく分かります。

ですから、おさづけの理を頂戴した日の「人をたすける心」は忘れてはなりません。

「おさしづ」では「人をたすける心」を忘れてしまうと、

「席をして順序運べば、さづけは渡そう。なれども落す日もあるやろ。これ知れんで。」

「おさしづ」(明治二十二年十一月二十五日)

さらには

「神は返やせとは言わん。なれども心違えば、直ぐに戻るで。」

「おさしづ」(明治二十年六月十三日)

とも仰せられ、「人をたすける心」を忘れてしまえば、折角拝戴した「おさづけの理」をなくしてしまうことになると仰せられるのです。

このように聞かせていただきますと、ようぼくとして、おさづけの理を拝戴した日の「人をたすける心」を忘れないように通らせていただきたいものですね。

 

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
教えを学び、心を磨こう。
すがけんでした。