はじめに『おさしづ』について
教祖(おやさま)がお姿を隠された明治二十年(1887)。それから明治四十年(1907)までの間は、飯降伊蔵(いぶりいぞう)というかたが神様のお言葉を仲介してくださることになります。
このお言葉をまとめたものを『おさしづ』と呼び、教祖にお教えいただいた「おつとめ」の歌である『みかぐらうた』や、教祖が自ら筆をとって記された『おふでさき』と同じように、現代の私たちに語りかけつづける神様のお言葉です。
『おさしづ』
『おさしづ改修版』全7巻
全期間:明治20年(1887)1月4日~明治40年(1907)6月9日
おさしづ総件数:2万余※以下、『おさしづ』については以下を参照してください。
ひながたの道を通らねばひながた要らん。
その「おさしづ」から
明治二十二年十一月七日のお言葉に、
「ひながたの道を通らねばひながた要らん。」
『おさしづ』明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話
※文中抜粋してます。
というお言葉があります。
このお言葉は、ひながたの道を通らないなら、ひながたという道は要らないという意味です。
つまり、「ひながた」の道を通ってくれという神様のお言葉です。
さらに、この「おさしづ」では、
「細道は通りよい、往還道通り難くい。」
『おさしづ』明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話
※文中抜粋してます。
と、細道を通ることよりも、往還道(大きい道)を通ることのほうが難しいと仰せられます。
ん?往還道は通りにくいとはどういうこと?
広い道ならば通りやすいものですが、広い道になったとたん気も緩み、教祖の歩まれた道を忘れてしまいがちになると仰せられているのです。
「ひながたの道を通らねばひながた要らん。」と厳しく仰せられる神さまの思いは、教祖がお通りくだされた苦労の道(細道)があって、今日の道(往還道※広く大きい道)であることを忘れてはいけないと仰せられているのです。
つまり、どんなに道の様子が変わろうとも、教祖のひながたを忘れずに、教祖がお通りになられたように日々を過ごしてほしいとの意味と思われます。
さらに、この「おさしづ」では、
「難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。」
『おさしづ』明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話
※文中抜粋してます。
このように、難しいことや、これまでにしたことのない教えを実行せよとは言ってない、教祖の通られた「ひながた」の道にお示しくだされてあると仰せられます。
そして
「なれども、何年経てばこうという理が、外れてはあろうまい。」
『おさしづ』明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話
※文中抜粋してます。
と、教祖の道すがらに、教祖が通られた道に間違いはないということは、後々の道の姿が証拠として示されているであろうと仰せられるのです。
神様のお言葉「おさしづ」には、
教祖の通られた道「ひながた」をどんなに時代が変わろうとも通ることが促されています。
「ひながた」について学ぼう
では、神様の思いに沿って「ひながた」を歩むにはどうすれば良いのでしょうか?
現代に生きる私たちには、教祖の姿を視覚によって見ることはできません。
ではどうすれば、
教祖がどのように歩まれたのか、
何を私たちに伝えようとされていたのかを知ることができるのでしょうか。
そこで頼りになるのが、
『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』をはじめ、
原典と呼ばれる『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』なのです。
先輩信仰者の皆さんは、天理教の教えがズレることのないように、沢山の教義書を残しくださいました。この努力にお応えさせていただくという意味においても、教えを学ぶことを精一杯させていただきたいものですね。
まとめ
・神様は、時代が変わろうとも、ひながたを歩んでもらいたいと思っている。
・今を生きる私たちは、ひながたを歩むために教えを学ぶ必要がある。
神様は陽気ぐらしをしてもらいたいと思い、その陽気ぐらしに向かう歩みとしてひながたをお通りくださいました。
現代にいきる私たちは、教祖が歩まれた道を直接みることはできません。だから教祖が歩まれたひながたを学び、さらにその学んだことを身に行っていくことが陽気ぐらしへの道となるのです。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか☆