前回に引き続き「みかぐらうた」をとりあげながら、教祖(おやさま)がどのようにして「おつとめ」をお教えくだされたのかをみていくことにします。今回は明治3年から15年までの時代をみつめたいと思います。
目次
明治3年「ちよとはなし」「よろづよ八首」をお教えくだされる
明治3年(1870年)に第二節「ちよとはなし」の歌と手振りが教えられ、「よろづよ八首」が「十二下り」のはじめに加えられます。
明治6年、飯降伊蔵(いぶりいぞう)が教祖の御命でかんろだいの雛形を制作されます。しかし、しばらくの間は倉に納められます。
※飯降伊蔵肖像画
明治7年「かぐら面」受け取り
明治7年6月18日、教祖は秀司先生、飯降伊蔵、仲田儀三郎、辻忠作などを従えて、ご生家である前川家にかぐら面を受け取りに出向かれます。
明治8年「ぢばさだめ」
明治8年6月29日、(陰暦5月26日)、ぢばさだめが行われます。明治6年からの一連の歴史的ながれをみると、「かんろだいつとめ」へ着々と準備が進められていきます。そしてこの年に「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りが教えられ、「かんろだいつとめ」の手が一通り整うことになります。さらに、その他十一通りのつとめも教えられます。(それはまた詳しく)
※明治20年代のおやしきの様子
明治10年 教祖は女鳴物をお教えになられる
明治10年には教祖自ら女鳴物をお教えになられます。
琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト。
ちなみに男鳴物は教祖に指図された記録は残っていません。
しかし、『稿本天理教教祖伝』(329頁)には明治20年陰暦正月26日のおつとめには橋本清(つづみ)という記録があり、さらに二代真柱様の著書『ひとことはなしその三』(208頁)には「教祖様によって、九つの鳴物がお示しあり教会開筵式まで、云はゞ個人信仰時代に使用されてゐたもので、先ず手近にあつたもので間にあはされてゐたものと推定いたします。」と、男鳴物についても教祖よりなにかしらの指示があったと仰せられています。
明治13年、転輪王講社の開筵式(※のちに詳しく)から8日後9月30日(旧暦8月26日)つとめ場所の北の上段の間の南に続く八畳の間で、初めて鳴物をそろえてのおつとめが勤められます。このとき、女鳴物はそろってはいたが、男鳴物は手合わせも稽古もできていない状態だった。
突然のことで人々は相談をし、教祖にお伺いをしたところ、「さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』七四「神の理を立てる」)と不十分なままであっても「皆、勤める者の心の調子を神が受け取る」との言葉で皆は安心したと伝えられます。
かんろだい没収の節
明治14年『おふでさき』第16号の冒頭から「かんろだいづとめ」の理を明らかにされ、ぢばの目標になるかんろだいの石普請にとりかかられています。陰暦の5月に1段目、そして9月に二段目ができたと言われています。(『復元』37号114頁参照)
しかし、その後、石工が姿を消してしまい普請は途中で中断されてしまいます。そして明治15年5月12日、残念なことですが二段まで積まれたかんろだいは警察に没収されてしまいます。人々が待ち望んだかんろだい普請はわずか一年でとん挫してしまうのです。その時のことを『おふでさき』では、
それをばななにもしらさるこ共にな
とりはらハれたこのさねんわな (一七 38)
このざねんなにの事やとをもうかな
かんろふ大が一のざんねん (一七 58)『おふでさき』
と、かんろだいの没収が一の残念であると記されています。
没収後「みかぐらうた」の地歌が変更される
そして、おつとめの地歌が一部変更されます。「いちれつすますかんろだい」は「いちれつすましてかんろだい」と改まり、「あしきはらひ」も「あしきをはらうて」と改められました。このときまでは、かんろだいを据えることによって、一れつの心を澄ますと教えられ、かんろだい普請をせき込まれてきましたが、ふしんのとん挫、かんろだい取り払い後は一れつの心をすますことが先決で、それがなってはじめて、かんろだいが据えられるという計画に変更されました。
つまり
かんろだい据える → かんろだいつとめ → 世界中の人間の心を澄ます
かんろだいの没収後…
世界中の人間の心をすます → かんろだいを据える → かんろだいつとめ
ということになります。
明治15年の地歌が改められることによって、現行のおつとめの姿となりますが、このときから警察からの干渉も厳しさを増し、おつとめを勤めることがより困難な状況へと変わって行きました。
ここで得た学びは、
・稽古が不十分であっても、神様は「心の調子を受け取る」ということ。
・かんろだいの取り払い後は、一れつの心をすますことが先決で、それがなってはじめて、かんろだいが据えられるという計画に変わったということ。
教祖は、稽古が不十分であっても、神様は「心の調子を受け取る」と、勤める者の心に配慮されていたのがよく分かります。
かんろだい普請がとん挫し、その後、二段までできたかんろだいが没収されつとめの地歌が変更されました。
このときから、世界中の人々の心を澄ましたのちにかんろだいを据え、陽気ぐらし世界を実現しようとの計画がこのときより始まるのです。
やはりポイントとなるのは「一れつの心をすますこと」ではないでしょうか。
稽古が十分できていても、つとめる者の心の調子を受け取られると考えれば「心」が大切であるということは明白ですね☆
おつとめをすることが日常になっている者こそ、「心」が置き去りにされないように「心をすます」ことに焦点をあてて通らせていただきたいものです。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか~☆