今から69年前、別席の誓いを述べる場所では、試験が行われていました。
「なに!試験だと!」と驚かれる方もおられるでしょう。
この試験は「初試験」と呼び、明治23年(1890年)から昭和24年(1949年)までの59年間行われていました。※途中戦争のために中断していた時期もあります。
さて今回は、この「初試験」について学びを深めたいと思います。
この学びを通して、その後行われるようになった「別席の誓い」について理解を深めたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
目次
「おさしづ」によって「初試験」が設けられる
初試験は「おさしづ」によって設けられることになります。
明治20年(1887年)「おさしづ」によって「おさづけの理」をお渡しくださることが示されてから、別席や初試験というおさづけの理を拝戴するまでの順序として別席制度が整えられます。
※現在の別席制度については以下を参照ください。
なぜ?別席制度がはじまったのか?
いつから別席が始まったのかといえば、正確にその日付に迫ることはできていません。しかし現在の研究では明治21年8月2日から同年8月23日の間と考えられています。
つぎに、なぜ別席が始まったのか、、、
それは、
おさづけの理を頂戴したいとおぢばに帰ってくる人が増えてきたことが挙げられます。
しかし、そのなかには教えを心に治めていない人がいたので、しっかりと神様の話を心に治めてもらうという目的で別席が始まりました。
そして何度も神様の話を聞いて、心に教えを治めた人におさづけの理を渡すということになったのです。※別席制度ついてはまた改めて勉強したいと思います。
別席を受ける人の見分け聞き分けをする
別席の制度が整えられていくなかで、明治22年(1889年)3月頃から、「おさしづ」で試験をすることを示唆されるようになります。
「…さあ/\悟りは皆々同んなじ理が渡してある。これをよう聞き分けて、日々運ぶ処/\見分け聞き分けて運ぶよう。」
「おさしづ」「明治二十二年三月十日(陰暦二月九日)
本席へ身上取次さしづ間違出来て取次へのおさしづ(遠州弘岡村真明組周旋人の身上の願なるに御授人として取次せし故なり)」※赤字/下線は筆者が付けたものです。
この「おさしづ」では、「日々運ぶ処/\見分け聞き分けて運ぶよう」と、別席を受ける人の心を、見極めるようにと諭されています。
ふむふむ。では神様は何を見極めようと仰せられるのでしょうか?
当時も官憲の眼が厳しかった
ちなみに、この当時の時代背景を振り返りますと、、、
①別席の制度が少しずつ整備されていくと、その整備に呼応するように別席を運ぶ人も増加します。
②それと共に、官憲の取り締まりも厳しいものになっていきます。
③そこで本部の人々は別席を密やかにおこなうようにして、官憲の厳しい干渉から逃れるよう対応していました。
その当時の様子は、「おさしづ」の割書に以下のように記されています。
明治23年1月3日の「おさしづ」では
「巡査毎日々々尋ね来るに付、別席本席順序運んで居ては、何分ひっそ/\になりませんから、暫く休みまして如何伺」
「おさしづ」明治二十三年一月三日(陰暦十二月十三日)割書より
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
明治23年1月11日の「おさしづ」では
「二三日前より奈良警察より二名及布留巡査等村内を廻り、おやしき内へも度々入り込むに付、村方の事を探偵するや、又おやしきの事を探偵致しますや伺」
「おさしづ」明治二十三年一月十一日 割書より
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
明治23年1月13日の「おさしづ」では
「巡査毎夜本席宅へ来る事の件に付伺」
「おさしづ」明治二十三年一月十三日 夜 割書より
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
と、官憲(巡査)の方が度々おやしきへ来ては干渉していた様子が「おさしづ」に記されています。
日々官憲からの目も厳しくなってきたことから、1月3日の「おさしづ」では別席と本席(おさづけの理拝戴)を休むことを伺いになられています。
しかし、神様のご返答は
「…一時どんと案じれば切りは無い。案じれば取り扱いの事情無く、休むという事情あろまい。…」
「おさしづ」明治二十三年一月三日(陰暦十二月十三日)
と、別席と本席を休むということはお許しにはなられませんでした。
この厳しい状況のなかで、具体的に
「随分席して、席始めるまで見分け聞き分け。一つ一寸の事、人間心の義理は要らんで。神の理が陰るという。」
「おさしづ」明治二十三年一月十三日
と、人間としては官憲の動きをはばかって、「おさしづ」での指示もあったこともあり密かに別席をおこなっていました。
しかし、神様の思いとしては、その取り扱については十分慎重にしてという意味で別席を運ぶ人をよく見分けるように仰せられたと思われます。
そして、別席をやめたり、人間思案で考えていては神の理が陰ると仰せられたのです。
初試験を設けることの伺い
この「おさしづ」を受けて、本部では会議が行われたようです。
その後、話し合われた内容が次の「おさしづ」の割書で明らかになっています。
初席及本席の件に付伺(前のおさしづにより中山会長より取決め下されしには、初席の者は会長と事務所一人、先生方一人、三人立合の上、身の内御話八つの埃の理を説かせ試験をする事、試験済の者は別席に掛かる事、本席に出る時同様の上、本席を取扱う。もしも試験に合格せざる時は、日を経て又試験をする事に定め下されしが、これで宜しう御座いますや伺)
「おさしづ」明治二十三年一月十三日 夜 初席及本席の件に付伺 割書
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
この「おさしづ」の割書きによって初試験の様子がよく分かります。
つまり、
■初席には三名の方の立ち合いのもと試験を行うこと
■試験の内容は「身の内御話」「八つの埃の理」を試験すること
■試験に合格すれば別席を運ぶ
■おさづけの理拝戴の前にもう一度「身の内御話」「八つの埃の理」を試験すること
■もし試験に合格できなければ日を改めて試験をすること
以上5点のことが伺われます。
試験の目的は、神様の話を心に治めること
そしてこの伺いに対して、
さあ/\尋ねる事情、事情というは一時取り調べ、取り締まり中に何か諭しやい、分からん事情は分けてやる。急がしい忙しいと言うて、これ分からんなりに通り来た。十分の理は些かである。一寸の理はやれ/\たんのうの理運ぶ理もあり、一時これをこうして信心の理が難しい。貰うたとてじいと納してある者もある。貰わん先心の理に合うて一つの理がある。これは生涯の楽しみの理もある。世界諭して心の理もある。たゞさづけだけ貰うた、これでよいという者もある。分からん者さづけ、世界十分通る処の理によって、一夜の間にも授ける者もある。三年五年貰いたいと信心の者もある。うっとしい難しい者もある。心の宝を求めて居て、世上の理を通る。これは不愍じゃな。何時渡すやら知れん。…
「おさしづ」明治二十三年一月十三日 夜 初席及本席の件に付伺
※赤字/下線は筆者が付けたものです。
と、この試験は単なる試験ではなく、別席を運ぶものに説き諭してやることが大切と仰せられます。
これまでは「せわしい」「いそがしい」と得心のいかない者でもそのままにしてきた。充分の理を治めるために、運ぶものが満足の理を治めることができるように取り図ってほしいと仰せられます。しかし、これが難しいとも仰せられるのです。
さらに最後の一文「心の宝を求めて居て、世上の理を通る。これは不愍じゃな。」と、神様の目から見て、おさづけの理を求めていながら、神の話を心に治めず、世間の常識に流されている者をかわいそうに思われているのです。
ここまでの「おさしづ」を見てまいりますと、試験をすることの目的は、神様の話である別席を心に治めることができるようにとの深い思いが込められているように思います。
まとめ
昭和24年、初試験は別席の誓いへと姿を変えましたが(これについても詳しくやりますが)、初試験も別席の誓いも、順序として初席の前に行うということは今も昔も違いはありません。
ですから、初試験から別席の誓いに変更された現在でも、別席の話を聞かせていただく前に、別席を聞く心を治めておく準備は同じように求められるのではないでしょうか。
では、現在、試験がない私たちにできることは何かということです。
神様の話を聞かせていただく本人としては、神様の話を聞かせていただくという心を作る努力が大切です。
それは「別席の栞」にも記されていることですが、別席はお付き合いで聞くお話ではなく、自らの心を洗い清めては改めさせていただくという目的があります。別席を受ける者はこの目的を明確にして別席を受けることが望ましいと言えるでしょう。
これは、別席者をお連れする人も同様で、お連れした方が神様の話を聴き取れるように心を尽くすということはさらに大切なのです。
いま、お道では人材育成が大切であると聞かせていただきます。
一人ひとりに心を尽くして、少しでもお道のことを心に治めてもらえるように通らせていただきたいものです。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか~☆