本席について ~人間であり教祖の代理という立場~

なんだか論文のようなタイトルになっちゃいましたけど、
もう少し、本席について勉強したいと思います。

飯降伊蔵先生が本席という立場に立たれた経緯については以下を参照してください、

飯降伊蔵が本席になった決め手

2017.12.15

今回はもう少し本席という立場について学ばせていただきたいと思います。

本席について

本席は神の言葉を取り次ぐが同じ人間である

「おさしづ」に

「席と言うたら、同じ人間である/\」
(明治33年4月3日)

と、本席は同じ人間という立場であると仰せられます。
すなわち、本席という立場にたち、
おさづけの理をお渡しくださったり、
神の指図を伝えてくださったりしますが、
飯降伊蔵が人間であるという立場は変わらないというお言葉です。

 

それは次のお言葉からも良く分かります。

本席は教祖の代理

「影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。」
(明治40年5月17日)

このおさしづでは、
姿は見えないが、たすけ一条の働きは日々の上に明らかに見えている。
この「おさしづ」を誰かが言っているとは思ってはならない。
この言葉は、今から二十年前に身を隠した教祖(おやさま)の言葉である。
教祖は現身をかくした後も、存命のまま働いているので、自由自在に働きをさせているのである。
と仰せられています。さらには

「席一つの事情、口を借って心は借らん。席に人間心一つも持たず」
(明治25年8月31日)

「踏ん張って一人席と言うて理を改め、代理として勤めさしてある」
(明治31年5月12日)

「席が存命理を負うてさづけある」
(明治34年5月25日)

と仰せられます。これらの「おさしづ」から見えてくることは、
本席とは御存命の教祖のお働きを代行するお立場ということです。

コラム:おさしづを取り次がれる際の服装について

明治二十五年二月十四日夜「永尾よしゑ身上頻りに迫るに付き」の伺いの時の「おさしづ」に「本席赤衣をお召し下されての御話」という割書からも、本席は教祖の代理としてつとめるということが形の上からも推測することができます。
※通常、「おさしづ」を垂示される場合、本席は黒の紋付の着物をお召しになっておられたようです。


※飯降伊蔵 肖像画

 

飯降伊蔵先生に教祖が入り込む

本席の立場は

「今席と言うたら教祖とは違うなれど、万事入り込んでの話すれば、教祖一つの理も同じ事、と諭し置こう」
(明治37年7月27日)

「席に入り込んだら神やで。なれど、入り込まん時は人間やで」
(明治40年4月12日)

と、本席という立場にたって、神様のお言葉を取り次げば、それは教祖がお話になっていることと同じことであると仰せられたうえで、本席としての役割をつとめるときは神としての働きをし、それ以外のときは人間であると明確に仰せられています。

つまり、平常時の飯降伊蔵先生は、一般に人間として他の人々と少しも異なったところはなく。反対に、本席の立場に立たれたときとは、神様の言葉を取り次ぐ者として、はっきりと一線を画すということです。

具体的な例にこのような史実が残されています。

人間から本席、本席から人間へと変わる様子

飯降伊蔵先生は日ごろ、何の変哲もない、ちょっと背中を丸めた温和な姿をしておられたのであるが、ひとたびお言葉がさがる時には、そのまるまった背中はシャンと真直ぐに伸びており、日ごろとは打って変わった威厳がただよっていたということである。

また、飯降伊蔵先生が身上を患い寝込んでいる時に神様からお言葉があること(刻限話)がありました。
そのような時には、いかに身上が重かろうと、布団の上に起き上がって正座され、お言葉を取り次がれるのでした。
そして、取次が終わると、再び正座しているのに耐えられないように床に臥されたといわれています。

まさに「席が言うのやない。神が言うのや。神が引いた後で聞いてやってくれ」(明治27年11月30日)とのお言葉の通りです。

このような史実をもとにして言えることは、
「おさしづ」として示されて残されているものは、存命の教祖の教えであり、けっして飯降伊蔵先生の人間的な意思に由来するものではないということです。
本席の立場とは、教祖が姿を隠された奥深い神意にさかのぼって理解されなければならないのであって、
繰り返しになりますが、教祖存命の理の確固たる実証にすぎないのです。
したがって「おさづけ」なども、その後は本席の理を通して存命の教祖からお渡しくださることになったのであるし、改まったところで、本席の口を通して示されるお言葉は、存命の教祖の「おさしづ」なのです。

ですから「おさしづ」に対する態度としては、絶対的信仰をもって、あくまでも謙虚に拝することが大切と言えます。そこに人間心を差しはさんだ理解があってはならないのです。

まとめ

これまで本席の立場についてみつめてきましたが、
おそらく、
「席に入り込んだら神やで、なれど、入り込まん時は人間やで」というお言葉から推測できることは、本席という立場からして、人々は形の上ではともかく、知らず知らずのうちに理と情とを混同するようになっていたのではないかということです。
本席として神様が入り込んで残された「おさしづ」は、私たち人間に対する指図であります。

ですから、われわれ信仰者としては、
人間の考えは抜きにして神様の思いはどこにあるのかと、原典(『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』)に求め続ける姿勢が大切ではないでしょうか。

神様の思いを求めて生きるということ、
それは神一条の精神という言葉に集約されているのではないでしょうか。

さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみましょう~☆