飯降伊蔵が本席になった決め手

教祖がお姿をお隠しになったとき

明治20年(1887)陰暦正月26日、教祖(おやさま)が現身をかくされたときの模様は『稿本天理教教祖伝』にこのように記されています。

※稿本天理教教祖伝については以下を参照してください。

ひながたは一人ひとりの見本

2017年5月23日

「教祖は、午後二時頃つとめの了ると共に、眠るが如く現身をおかくしになった。時に、御年九十歳。人々は、全く、立って居る大地が砕け、日月の光が消えて、この世が真っ暗になったように感じた。真実の親、長年の間、何ものにも替え難く慕い懐しんで来た教祖に別れて、身も心も消え失せんばかりに泣き悲しんだ。」

「稿本天理教教祖伝」332~333頁
※下線は筆者が引いたもの


ご休息所 内観 (奥の一段高い場所で教祖は姿をお隠しになられました)
天理教青年会『天理青年教程第37号 教祖伝ゆかりの地を訪ねて』77頁参照

『教祖伝』には、立っている大地が砕け、光が消え、この世が真っ暗になるほどの悲しみであったと記されています。
その後、人々は気力を振り絞り、なぜ現身を隠されたのかを飯降伊蔵先生を通して思召しを伺いました。
それは先生が元治元年に扇のおさづけを頂かれ、特にいわゆる「言上の許し」といって、神様のお言葉を直接に取次ぐ理を許されており、かねてから「仕事場」として、諸々の問題解決の上に神意を明かされていたので当然の流れであったかと思います。※詳しくは以下参照

原典について ~『おさしづ』と本席について~

2017年11月28日

教祖がお姿をお隠しになった理由

その時の「おさしづ」に次のようなお言葉がありました。

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

「おさしづ」明治20年2月18日

内容を要約いたしますと、

人間の成人を促すために教祖が現身をかくされた

教祖が現身を隠されたのは、一れつの人間が可愛い故のことであり、人間の成人を促されるため、さらには救済をお急き込みになられた上からであること。

たすけを進める上に「おさづけ」を渡すことの約束

教祖が現身を隠された後も教祖は存命のままお働きくださり、これから先もこれまでと同じように「おさづけの理」をお渡しくださる。

と仰せられました。
つまり、人間をたすけたいという思召から現身を隠され、そしてたすけを進めるうえでおさづけを渡していくと仰せられたのです。

そして、おさづけの理」を渡す立場として「本席」という立場が設けられるのです。

 

なぜ飯降伊蔵先生が本席に定められたのか

ところで、なぜ当時数多くいた信者のなかで、飯降伊蔵先生が本席と定められたのでしょうか?
次の「おさしづ」にそのポイントが語られています。

さあ/\何とも無いようなら、何でも無い。この道筋始め掛けた。皆遠いように思うた。よう/\詰んで来たらその道が見え掛けるやろう。心に治まりて居るやろう。よう聞いてくれにゃならん。一寸始め掛けた時、どちらへ入り込むか、こちらへ入り込むか。入り込む者は沢山あったなれど、どうも一人の心に一つの理を結び込んだ。長い間なら聞いて居る者も、見て居る者もあろう。又中には聞いて居ん者もあろう。ふでさきにも出してある。元々の話聞いて成程の理と思うだけの者貰い受けた。親子諸共伏せ込んだ理人間心人間の思わくには成ろうまい。誰にも遠慮気兼は無い。もう、伏せ込んだ理よりよっく思やんして、心得違いの無きよう、取り間違いの無きよう、よう事情治めてくれるよう

「おさしづ」明治27年3月4日
下線は筆者が引いたもの

つまり、

伏せこんだ理に本席という理を定めた。

飯降伊蔵先生の伏せ込んだ理に、本席という一つの理を定めたと仰せられます。
特に、家族揃ってやしきに伏せ込んだこと、人間思案をはなれてこそできることであると仰せられています。

端的にいえば、、、
自分のことや家族のことはさておき、神様の思召にそって伏せこんだことが「本席」と定める決め手になったと仰せられているのです。

次の「おさしづ」には飯降伊蔵先生の伏せこみの様子が伺われます。

丸九年という/\。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\随いて来てくれたと喜んだ日ある。これ放って置かるか、放って置けるか。

「おさしづ」明治34年5月25日

 

頼りになる者のないなか伏せこんだ姿

毎年の暮れに自分の家のことはさておき、やしきの用事の上に尽くしてきた心というものは、並大抵の真実ではない。
ある時には、このやしきへ誰も出てくる者はなかった。その時は頼りになる者もいなかった。と仰せられます。

長い間、変わらず伏せこんだ姿

さらには九年という長い間、飯降伊蔵だけがやしきへ運んで、一切のことを取りまとめ、ようよう随いてきてくれたと喜んだ日もあった。
と、長い間、変わらずに尽くしてくれた真実の姿をよく考えてみるがよい。

と、教祖の通られた道のなかで、おやしきが困っているときに長いあいだ伏せこまれたことを強く強調されているように思います。

 

まとめ

これらの「おさしづ」から見えてくることは、
飯降伊蔵先生が長い間、おやしきに伏せ込まれたことを見定めた上で本席に定められたということです。

飯降伊蔵先生は「人が好くから神も好くのやで」と、教祖より言葉をかけていただき、長い間やしきに住まいすることを待ち望んでおられたと聞かせていただきます。
神も好くと仰せらえた飯降伊蔵先生の道には、私たちの信仰を進めるうえで、学ばせていただくことがたくさんあるように思います。

その中でも特に、長きにわたって伏せこまれた飯降伊蔵先生の姿に、神様はとても喜ばれていることが伺われます。

次回は、飯降伊蔵先生の歩みについて学ばせていただき「伏せこみ」について理解を深めていきたいと思います。

さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみましょう~☆