黒門から南門へ ~南門の歴史それぞれ~

天理教小史

『天理時報』昭和39年12月6日

天理時報で南門についての記事を発見しました。

「炊事本部」「南門」命名さる

現在にも続く「炊事本部」と「南門」の命名が決まるというタイトルで、以下のように記されています。

本文

「来春の節会での使用をめざして工事の進められている新しいマンモス炊事場は二十六日の本部会議で『炊事本部』と正式に命名された。又従来”黒門”と通称されていた南礼拝場前の大きな門は”南門”とよばれる事に決定され、その前から真直ぐ南へ、大学の鑵子山校舎(かんすやまこうしゃ)をぬけて三十六メートル幅の道路が天理高校の前まで作られる。

『天理時報』昭和39年12月6日
※()は筆者が記入したもの

炊事本部についてはまたの機会にします。

本文では「黒門」と通称されていたと記述があります。
当初は昭和11年の天理時報では「正門」記述されていましたので、、、いつから「黒門」の通称になったのでしょうか、、、また調べなきゃ…

天理教教会本部の南門解体について

2018年2月5日
※以前の記事

とにかく26日の本部会議と記述がありますので、
その前月の11月26日に「南門」と呼ばれることになったということでしょう。

昭和39年という年は

ちなみに、昭和39年という年は、教祖80年祭にむけて親里整備がすすめられた年です。
祖霊殿が西へ移動されたり、雛型かんろだい据え替えの儀が行われたり、豊田山舎(納骨する場所)が完成したり、おやさとやかた南左第4棟のふしんが始まるなど、ほぼ1年後に迎える年祭にむけて着々と整備が進められた年といえます。

日本の動き

日本の動きとしては
オリンピック東京大会が開催されます。
それに合わせて東海道新幹線が東京と新大阪間が開業するなど、日本も大きく成長を遂げた年だったとみられます。