ひながたは一人ひとりの見本

ひながたを学ぶ 主要テキスト

教祖(おやさま)のひながたを学ぶうえで欠かすことができないのが

『稿本天理教教祖伝』と『稿本天理教教祖伝逸話篇』です。

①『稿本天理教教祖伝』

・よみ「こうほんてんりきょうきょうそでん」
・初版:昭和31年10月26日
・定価:500円※サイズにより変更

※簡単に説明すると、史実を踏まえながら、ひながたを踏み行ううえの、基準として読む書物。

 

②『稿本天理教教祖伝逸話篇』

・よみ「こうほんてんりきょうきょうそでんいつわへん」
・初版:昭和52年1月26日
・定価:400円※サイズにより変更

※教祖伝がひながたを踏み行ううえの基準として読む書物に対して、逸話篇は教祖が信仰する人々に対して、どのように導かれたのかを纏めた書物です。かなり簡単に言えば、、はい。

※上記、二つの書物については、今後詳しくご説明させていただきたいと思います。

※以下『稿本天理教教祖伝』を『教祖伝』、『稿本天理教教祖伝逸話篇』を『逸話篇』と表記します。

天の定規とは

今回はその『逸話篇』から「三一 天 の定規」というご逸話にふれてみたいと思います。

「教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか。」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「隙があります。」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」と、教え下された。

『逸話篇』「三一 天の定規」(49頁)参照
※太文字は筆者がしたものです。

この逸話は、教祖が柱を例え話として分かりやすいように説明くださっています。

いろいろな意味が込められている逸話であると思いますが、
私が特に注目したい点は、飯降先生が自ら切った木に、自ら定規をあてたという点です。
他人の切った木に定規を当てて、「狂いがある」と指摘したわけではありません。

「柱」に「定規」をあてて歪みがないかを自分で確認されました。
この「真っ直ぐな柱」を「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事
つまり「世間的な常識」「正しいと思っていること」と見立て、
それに対して「定規」を天の定規
すなわち「神様の思召」「教え」と喩を用いてお話になられたと思うのです。

 

自分の通り方を反省する

まとめてみると
このお話で出てくる真っすぐな柱とは、
飯降先生自身が「真っすぐ」と思って、真っすぐに作った柱であります。

つまり
①自分自身の考えや行動の象徴として「柱」が用いられたということ。
そして、
②飯降先生自ら定規をあてて隙がないかを確認されたということ。

①と②を考え合わせると、「自らの通り方を反省させていただくために、この道の「教え」を使った」と、いう意味にとれると思います。

信仰を深めるサイクル

この「天の定規」とは何かといえば、
教祖から伝えていただいた教えや、教祖のひながたであります。
サイクルで考えると以下の通り、


つまり、、、、

「天の定規」というご逸話は、実行し反省しては改めるという信仰を深めていくサイクルを示してくださっているのではないかと私は思うのです。

 

まとめ

・天理教の教えは自分をふりかえるために使うもの

教祖のひながたという歪みのない天の定規を自分に当てはめれば、誰でも歪みはあるはずです。この歪みをみつめることはなかなか容易なことではありません。だって、自分のできていないところを見つめるなんて、、、できることならば隠してたいですよね。

しかし、その歪み見つめ、改めて整えていく歩みこそが、神様の思召である陽気ぐらしへの道となるのです。でもまずは教祖に教えられたことを素直に実行しないことには定規で確認もできませんけどね。

さあ、ともに教えを学んで実行し、より良い生活を過ごしてみませんか☆