目次
先人の先生もひながたが大切と語っている
教祖(おやさま)のひながたを学ぶ上で欠かすことができないのは『稿本天理教教祖伝』と『稿本天理教教祖伝逸話篇』であることは以前に触れましたが、
今回のすがけんの天理教のみかたでは、教祖のそばでお勤めになられた先人のお話を基にして、ひながたについてより理解を深めてまいりたいと思います。
先人先生のお話はおすすめ
まず皆さんにお伝えしたいことは、
先人の先生のお話はとてもわかりやすいのでおすすめということです。
どうしてわかりやすいのか。
私が思うに二つの理由があります。
一つ目は
・教祖から直接にお話を聞いているので、余計なものがあまり入っていない。
二つ目は
・単純な譬えを用いられているので、理解がしやすい。
他にもいろいろと挙げられると思われますが、大きいのはこの二点と思います。
教祖から直にお話を聞いているので、余計なものがあまり入っていない。
つまり、教祖から直接教えを聞いているので、余計なことがあまり入っていない。
教祖→先人→語る言葉
教祖→先人→先人→先人→先人→語る言葉
どちらが混じりけが少ないかと言えば、、、、
やっぱり上記でしょう。
人を介せば介すほど、
言い間違いや、聞き違いのリスクが高くなりますね。
これが理由としては大きいと思います。
そんな数ある先人から、今回は宮森与三郎※という先人のお話をチョイスしました。
個人的にとても好きな先人です。
宮森先生は明治10年頃に入信、それ以来、教祖の許に足を運び、中山家の身の回りのことをお努めになられます。当時は警察からの迫害干渉が厳しく、教祖のお近くにあったこともあり、大変ご苦労くだされた方であります。
教祖のひながたから離れては天理教とはいえない
宮森先生は、
「天理教に於きましては、教祖様は一般の手本や雛形であつて教祖様をはなれてしまっては、天理教といふものは成り立たない、それでは世界並や、たとへ教祖様の百分の一でも、千分の一でも足跡を踏ましてもらはねば安心する事が出来ない」
「宮森先生のお話」『みちのとも』大正6年7月号 参照
宮森先生は、天理教は教祖のひながたを離れてしまっては成り立たない、と仰せられます。
そして、百分の一でも千分の一でも教祖のひながたを実行させてもらわなければ安心(あんじん)することができないと仰せられるのです。
安心とは?
ちなみにこの「安心」という言葉には「あんじん」というルビがふられています。
この言葉には
「教えを聞く、修行を積むことによって、どんなことにも心を乱されない境地」(『三省堂大辞林』参照)
という意味があり、ここに「教祖様をはなれてしまっては、天理教といふものは成り立たない」という点が強調されています。
貧に落ちきられる目的 その2
教祖は、
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」
「四 一粒万倍にして返す」『稿本天理教教祖伝逸話篇』3頁 参照
と仰せられ、徹底してほどこすことから「ひながた」の道を始められました。
※この点については
喜ばさずには一人もかえされん
その貧に落ちきられる道中のなかで、
「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」
『稿本天理教教祖伝』25頁 参照
と、人間は皆、神の子と仰せられて、人間のために自分たち(中山家)が食べるお米がないというところまで施し続けられたのでした。
とにかく、教祖は自分のことはかまわず、世界一れつ皆兄弟である人間をたすけたい一心で、子供かわいい親心でもって施しつづけて貧に落ちきられたのです。
この貧に落ちきられるなかを、
教祖は自ら進んで難儀な境遇になられて、
人の苦しみを自らの心の痛みとし、
人間の喜ぶ姿をみては、自らの喜びとしてお通りになられたのです。
相手の立場にたって考える
人間は、
自分の立場からものごとを考えると、必ず求める心がでてきます。相手の立場にたって考えるようになると与える心になるのです。
頭ではよく分かりますが、これを実際にお通りになられたのが教祖のひながたなのです。
上記の宮森先生のお話の締めくくりには「教祖を失わないようにして、お通りくだされんことを、お願いいたしておきます」と結ばれています。
「ひながた」と聞くと、教祖だからお通りになられたのだと、自分が実行するということをあきらめてしまいそうになります。
しかし、宮森先生のお話でもあるように、百分の一でも千分の一でも教祖のひながたを通らせていただこうと思うことが、道を歩む者の精神であります。
まとめ
・ひながたは、人に満足を与え心に喜び生み出す道
教祖のひながたは人に満足を与え、心に喜びを生み出す道ということだと私は思います。
人に何かをしてもらうことよりも、人に満足を与え、人が喜ぶ姿をみて喜ぶことを真の喜びとし、心の内側から喜びを生み出すようにすることが、「陽気ぐらし」へ導かれる神様の思いに沿う生き方といえるではないでしょうか。
そして、それを実行することを忘れないようにさせていただきたいものです。
さあ、ともに教えを学んで実行し、より良い生活を過ごしてみませんか☆