原典とは?
天理教では、教えの元となる書物を「原典」と呼んでいます。
一般の辞書をひきますと
「げんてん(原典) 引用・翻訳・改作などのもとになった書物。「-にあたる」」
『大辞林』三省堂
と説明をしています。
原典という言葉は一般にも使われる言葉なんですね。
では、天理教における「原典」という言葉が指し示す書物は何か?
それが今回のテーマです。
原典という言葉のはじまり
「原典」という言葉は教祖(おやさま)が使われていたわけではありません。
時期としては、昭和24年から使われ始めたと言われています。
昭和24年10月26日に公布された『諭達第一号』※のなかで「原典」という言葉が初めて登場しました。
今日はあたりまえのように「原典」「原典」っと使っていますが、最初から原典とは言わなかったのです。(その歴史的な流れについてはまた今度します。)
真柱様から特別に教内全般に対してさとされること。またそれが記された書物のこと。
教典について
『諭達第一号』が公布された昭和24年10月26日は、現行の『天理教教典』が裁定され発表された日です。
『天理教教典』(てんりきょうきょうてん)
出版年 昭和24年10月26日
編纂者 天理教教会本部
それまでにも『天理教教典』(明治36年発刊)はありました。
しかし、この教典は明治29年に国から発令された内務省訓令によって天理教は弾圧を受けていた関係上、教えを素直に説くことが難しい時代だったのです。
そんな時代背景もあって、明治に出された教典は、まじりっけのない教えとはいえない内容だったのです。
しかし、昭和24年に発表された『天理教教典』は、信仰の喜びの基準となるものとして、
教えを元に復す「復元」という動きのなかで改められることになりました。
つまり、教祖がお教えくだされた真の教えに近づこうではないか!と、生まれたのが、現行の『天理教教典』なのです。
原典と教典
昭和24年に出された『諭達第一号』には
おふでさき、みかぐらうた、おさしづは、本教教義の源泉である。この原典に基づいて、天理教教典を編述し、茲に、これを交付する。
『諭達第一号』昭和24年10月26日
このように記されています。
つまり、教典が公布されるにあって、
天理教の教えの基準が明確になることで、原典の位置が明確にされたということなのです。
図式にするとこんな感じになります。
『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』 = 本教教義の源泉
本教教義の源泉 = 原典
原典 = 『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』
『おふでさき』
公刊年:昭和3年(4月26日から8月26日にかけて5分冊公刊)
※その後、様々な変遷を経て現在は1冊に纏められている。
編纂者:天理教教会本部
『みかぐらうた』
公刊年:明治21年11月1日
編纂者:天理教教会本部
『おさしづ』(全7巻)
公刊年:昭和2年11月27日~昭和6年6月26日※当初は33巻分冊
※その後、様々な変遷を経て現在は7巻に纏められている
編纂者:天理教教会本部
で、この原典に基づいて編述されたのが教典であると諭達第一号で示されるのです。
つまり、この時をもって『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』は、教典の原典と位置付けられたのです。
ちなみに『天理教教典』の裁定文にも以下のように記されています。
本書は おふでさき みかぐらうた 及びおさしづに基き 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する
昭和二十四年十月二十六日
真柱 中 山 正 善『天理教教典』参照
『天理教教典』は、原典にもとにして作られたものということがしっかりと記されています。
つまり、教典があるから『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』は原典というわけですな☆
原典は素材で教典は料理みたいなもの
ざっくりな譬えを用いて説明するなら、
原典はニンジンやジャガイモやお肉などの素材で、教典はカレーみたいな。。。
カレーを作ったのは人間で、素材をつくったのは神様。
だから原典と教典は別ものなんです。
素材だけでは食べにくいところもあるから、食べやすいように料理しているのです。
料理しているから素材以外のものが入っている。
教典は原典をもとに作られている。けど、人間が作ったということは覚えておきましょうね。
人間が作ったから教典がダメと言っているわけではありません。教典はあくまでも原典に記されていることを学ぶ入門書という理解が大切なのです。
今回の得た学びは
・「原典」は『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』という書物のこと
・「原典」と「教典」は違う書物
・「教典」は原典理解への入門書
これまで教典や原典を引用していろいろなことを書いてきましたが、
原典を引用して書いているっていうことは、神様はこのようにおっしゃいましたっていうことなんです。
私たちの信仰はどこまでもこの神様の教え(思召)に近づくことが大切だと思います。
時代の移り変わりのなかで、言葉の意味が変わったり、
伝える人の間違えがあったり、聞き間違えがあったり、
誤った理解をして神様の思いから遠ざからないようにするためには、
教えを学ぶことはとても大切なことなのです。
そのために原典というものをお残しくださったわけですしね。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか☆