誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
誠は神様の思召しに沿う
人間の考えでいくらよいと思っていることでも、神様の思召に沿わなければ自由自在の御守護を頂くことはできません。
おかきさげで示される「誠」こそ神様の思惑に沿うことであり、さらにはすぐに受け取りすぐに返すと仰せられるのです。
おさしづでは
「常に誠という心あれば、その場で天の理が直ぐに受け取る、直ぐに返やす/\。自由自在は、めん/\の日々通る常にあるのやで」「おさしづ」明治二十一年十一月十一日
自由自在は各々の日々に通る常の姿にあると明確に仰せられています。
誠を聞き分けるということ
「まことゝいふは、くちと、心と、手と、この三つが、そろふて、しんのまことゝいふ。それ、いかほどくちで、誠のはなしするとても、しんにまことをさまりあれば、おこなひもそれにそふて、それ、すること、なすこと、にち/\つねに、いかなることも、みな、まことのやうにばかりなるであらう。けれども、心にまことをさまりないと、それ、どうもならん。」
『改定正文遺韻』
以前取り上げた「正文遺韻」の「誠といふこと」についてに、誠とは口(言葉)と心と手(行為)と三つ揃えることが真の誠と説かれています。誠の話を聞いて、それを取り次ぐことで話の理が心に治まれば、行いもそれに沿うようになってくると仰せられます。
この三つを揃えるというフレーズは他の先人の話の中にもあります。
宮森与三郎先生のお話
「誠といふものは心と口と、行と三つそろはにや誠や御座いません、誠の話をするくらひの人は世界を探してごらん、竹杷でかき集めるほどある、いくら誠なことを云ふても、それを実行せねば誠やございません」
宮森与三郎「宮森先生のお話」『みちのとも』大正6年7月
宮森先生のお話におきましても同様に心と口と行いと三つそろえるということが強調されています。
人をたすける心を持ち、人をたすける話をし、人をたすける行いをする。
これが真の誠であり、これを身に行うことを「聞き分ける」ようにと重ねて仰せられるのです。
まとめ
天理教では合わせるということが一つの眼目として説かれる場合があります。合わせるというのはこれは天の理に合わせるということが目標地点であります。その際、神様はどのような思召しであるのかと、神様の思召しをくみ取る努力をすることが、まず何よりも大切であります。
その中で見えてきた「誠」という人をたすけるということを心と言葉と行いとをあわせていくということが説かれるのです。そしてそれを聞き分けよと押して仰せられるのです。
心から人をたすける心をもち、柔らか優しい言葉で人をつつみ、人の難儀を手助けしていく。これが私たちに求められる歩みなのです。