「みかぐらうた」は教祖が自らおつくりになられたもので、世界中の人間をたすける道として教えられた「おつとめ」の地歌です。
今回は「みかぐらうた」をとりあげながら、教祖がどのようにして「おつとめ」をお教えくだされたのかをみていくことにします。
おつとめの初期は「なむ天理王命」と連呼せり
嘉永6年(1853年)に、教祖の末女こかん様が浪速(大阪府)の地で「天理王命」の神名を流されます。拍子木を打ちながら「なむ天理王命」と繰り返して唱えられたといわれています。
さらに十年後の文久3年(1863年)には、辻忠作(つじちゅうさく)が信仰をはじめたときの様子に、「忠作は、教えられるまゝに、家に帰って朝夕拍子木をたゝいて、「なむ天理王命、なむ天理王命。」と、繰り返し/\唱えて、勤めて居たが、」(『稿本天理教教祖伝』45頁)と伝えられています。
当時、自宅において朝夕、拍子木をたたき神名を唱えていたことが伺われます。
この頃のおつとめは回数が限定されておらず、線香を立ててその燃え尽きるまでを一区切りとしてつとめていたようです。(※『稿本天理教教祖伝』45~46頁参照)
元治元年、大和神社の一件における記録
元治元年(1864年)10月27日におこった「大和神社事件」では、少し異なる「おつとめ」の様子がうかがわれます。
その日は、つとめ場所の棟上げのお祝に、10人ほどの信者を山中忠七が自宅へ招待していました。その際、教祖よりお許しをいただいたおり、「神前を通る時には、拝をするように。」と仰せられていましたので、道中、大和神社の前にて拍子木や太鼓などの鳴物を打ち鳴らして「なむ天理王命」とくりかえし唱えたのでした。
※現在の大和神社
その日、大和神社では守屋筑前守(もりやちくぜんのかみ)による一週間の祈祷が行われていました。その神前で鳴物を鳴らし、聞いたことのない神名を唱えていたことから、祈祷の妨害を行ったとして、一行は鳥居前の宿に三日間留め置かれたのです。
このとき、村役であった山澤良治郎や岸甚七に掛け合ってもらい放免となります。この事件の後に提出された「御請書」の中には、没収された鳴物などが列記されている他、「馬鹿踊と称し」という記述がみられる。第一節が教えられる慶応二年以前のことだけにとても興味深い記述です。
慶応二年、第一節が教えられる
慶応二年(1866年)の秋、不動院の山伏がおやしきに訪れ、乱暴狼藉を働いたのち、「あしきはらひ」のおつとめと手振りをお教えになられます。
※山伏の衣装
その後、慶応3年(1867年)正月から八月にかけて「十二下り」の歌が教えられます。先人の残された文書には、まず筆をとって「みかぐらうた」を教えられ、その原本を先人たちは書き写して写本として残されたと記されています。
ただし、教祖の筆による「みかぐらうた」は発見されてはいません。当時のおやしきの状況を考えると『みかぐらうた』原本は『おふでさき』と同様、官憲の目から逃れるために隠匿していたものと思われます。そして隠匿しているうちに紛失してしまったというのが可能性として一番高いと思われます。
※『おふでさき』の隠匿については以下参照
教えられる際の教祖の御態度
おつとめを教えられるにあたり、教祖はまず人々に歌わせたのちに自らがお歌いになり、お手振りにおきましても人々に踊らせて、それから教えになられていたと伝えられます。
手振りが間違うことがあっても「恥をかかすようなものや」と、個人的に間違いを指摘されるようなことはなったと言われています。
人を導き育てる教祖のお心と御態度は、私たちが人を育てさせてもらうということにおいて学ぶところがあるといえます。
ここで得た学びは、
・初期の「おつとめ」は「なみ天理王命」と繰り返し神名を唱えられる形だった。
・「山伏がおやしきで乱暴狼藉を働いた」や「大和神社事件」など、お道にとって節があるごとに「おつとめ」の形を変更されていく。
・どのようななかでも教祖は人間の心をみつめながら人々を導かれた。
「おつとめ」に関する史実を見つめますと、「おつとめ」を教えるにあたり、順序を考慮し、相手に恥をかかさないように配慮されていたのが分かります。
おつとめをお教えくだされた教祖のお姿には、
人を導く際のひながたが示されているように思います。
子供に接するとき、
後輩に指導するとき、
身近な人とのやりとりなど、
日常の生活の様々なやりとりのなかに相手のことを考えて接する。
あたりまえのことですが、心にかけて通らせていただきたいものです。
さあ、ともに教えを学んで、より良い生活を過ごしてみませんか~☆